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エディ・コクランを偲んで〜ロックンロール草創期の大スターが遺した足跡と功績

2018.04.17

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1950年代、アメリカでは幾人かの“ロックスター”が誕生した。
その中でも70年代までスターであり続けたのは、エルヴィス・プレスリーただ一人だけだった。
50年代に活躍したスターたちは、奇しくもそろって悲劇的な事故により夭逝し“伝説”として語り継がれる存在となった。
バディ・ホリー、リッチー・ヴァレンス、ザ・ビッグ・ボッパー(ジャイルス・ペリー・リチャードソン)…そしてエディ・コクランもその一人だった。
今日は21歳の若さで他界したエディ・コクランを偲んで、彼の功績と足跡をあらためてご紹介します。


1938年、彼はアメリカ中部のミネソタ州にあるアルバート・リアという小さな町で
生まれる。
5人兄弟の末っ子として育った彼は、12歳の時に学校のオーケストラに入る。
そこでトロンボーンを担当するうちに音楽に目覚め、家にあったギターをいじりだす。
13歳の頃に一家でカリフォルニアに移住し、そこで音楽仲間を見つけてカントリーバンドを始めた彼は、チェット・アトキンスのプレイに衝撃を受けてプロミュージシャンになることを決意する。
1955年、17歳になった彼は学校を辞めハンク・コクランと共にコクラン・ブラザーズを結成し、翌年にはマイナーレーベルからのレコードデビューを果たす。
(ちなみに相棒のハンク・コクランは、ファミリーネームが同じなだけで血縁関係はない)

時を同じくしてエルヴィス・プレスリーが白人のカントリーと黒人のR&Bを融合した新しい音楽スタイル“ロックンロール”を打ち出し、一般家庭にも普及し始めたテレビの番組出演を通じて大きな注目を集めていた。
その頃のエルヴィスと言えば、PTAや宗教団体から激しい非難を浴びせられながらも若者たちの心を鷲掴みにしていた。
エディ・コクランもまた、そんなエルヴィス旋風に魅せられた一人だった。
翌1956年、コクラン・ブラザーズの活動ではなかなかヒットに恵まれない中、彼の人生を一変させるような出演オファーが届く。
それは映画『The Girl Can’t Help It(女はそれを我慢できない)』の演奏シーンへの出演依頼だった。
当時セクシー女優として名を馳せていたジェーン・マンスフィールドが主演する映画で、彼はエルヴィスに扮して「Twenty Flight Rock」を演奏するパフォーマンスで一躍大きな注目を集める存在となったのだ。

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この映画出演をきっかけに、19歳になった彼はリバティー・レコード(現在のEMI傘下メジャーレーベル)と契約を結び、後に自身の代表曲となる「C’mon Everybody」、ザ・フーが世界中に広めることとなる名曲「Summertime Blues」など、次々とヒット曲を連発する。
当時、彼はアメリカ以上にイギリスでの人気が高く、若かりし日のビートルズやローリング・ストーンズの面々にも多大な影響を与えたという。
しだいに彼はエルヴィスに続く“新世代のヒーロー”と呼ばれるようになる。


そんな中1959年2月3日、彼の親友でもあったバディ・ホリーをはじめリッチー・ヴァレンス、ザ・ビッグ・ボッパーといった当時の人気ロックンローラー3人がツアー先の飛行機事故で命を落とす。
当初、そのツアーに参加する予定だった彼は大きなショックを受け、しばらくの間ステージに立つことをやめてスタジオワークに専念したいと考えるようになる。
当時のツアーは、ロックスターと言えども今とは比べものにならないくらい過酷な日程で組まれていたのだ。
しかし彼には1960年2月から「Be-Bop-A-Lula」で知られるジーン・ヴィンセントらとともにヨーロッパを回る大規模なツアーの契約が残っていたのだ。
ためらいながらもスタートさせたツアーは各地で熱狂的に迎えられる。
イギリスではビートルズのジョージ・ハリスンがツアーの“追っかけ”をしたという話や、彼を崇拝していたマーク・ボランがローディー役を申し出たというエピソードも残っている。
旅先で精神的にも肉体的にも疲れ切っていた彼は、婚約者でソングライターのシャロン・シーリーとジーン・ヴィンセントともに数日間の休暇を取って一時帰国することを決める。
彼はイギリスのホテルから母親に「今回の休暇を終えてあと10週間だけステージをこなせばもうツアーに出なくてもいいんだ!」と電話で伝えたという。
そして…4月16日、3人はいったんアメリカに帰国するためにタクシーに乗り込み空港へと向かっていた。
彼らを乗せた車のタイヤが突然バーストし、そのまま激しく街灯に衝突する。
(※事故原因について「雨でタイヤがスリップした」「街路樹に衝突した」とされている説もある)
シャロン・シーリーとジーン・ヴィンセントは骨折はしたものの一命をとりとめる。
事故の衝撃で車外に投げ出された彼は脳挫傷を負い、搬送された病院で翌4月17日に息を引き取った。


──メジャーデビューから悲劇的な交通事故で他界するまで、彼の本格的な活動期間はわずか3年だったという。
その夭逝から半世紀以上経った今でも、彼は自身がプロデュースや作曲で関わった数々の名曲と共に“伝説のロックンローラー”として愛され続けている。






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