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ララ・アンデルセンを偲んで〜戦火の下、敵味方を超えて愛された「リリー・マルレーン」の歌物語

2018.08.29

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1938年に作曲されたドイツの歌謡曲が、一人の女性の運命を変えた。
ララ・アンデルセン。
彼女は、第二次世界大戦中に「リリー・マルレーン」という曲を歌って世界的に注目を浴びた歌手・女優である。
1972年8月29日、彼女はオーストリアのウィーンで静かに息を引き取ったという。
死因は心臓発作(一説では肝臓癌)とされている。享年67。
現在、彼女の遺骨は北海に浮かぶランゲオーク島(ドイツ)に埋葬されている。
今日はララ・アンデルセンの足跡と共に、「リリー・マルレーン」という曲の持つ不思議な魅力、その歌物語に迫ります。




ララ・アンデルセン(本名リーゼロッテ・ヘレネ・ベルタ・ボイル)は、1905年3月23日に北ドイツの港町ブレーマーハーフェンで生まれた。
彼女は17歳で同郷出身の画家ポール・アーンスト・ウィルクと結婚し、若くして3人の子供を出産する。
しかし結婚生活はすぐに破綻し、当時24歳だった彼女は子育てをしながらベルリンに移住し、俳優養成学校に入学する。
26歳の時に正式に離婚した彼女は、ベルリンのキャバレーなどのステージに立つようになる。
当時の芸名は“リゼロット・ヴィルケ”だった。
30代の前半で芸名を“ララ・アンデルセン”と改め、ドイツ民謡やシャンソン、流行曲などを歌いながらドイツ国内で下積みを経験する。
そして1939年(当時34歳)、ミュンヘンのキャバレーに出演していた彼女は運命の歌に出会う。


兵舎の大きな門の前に
街灯が立っていたね
今もあるのならまたそこで会おう
街灯のそば…僕らは一つ
昔みたいに リリー・マルレーン

二人の影が重なり一つに溶けていく
僕らは愛しあっていたんだ
ひと目見れば分かるほどに
街灯のそば…僕らは一つ
昔みたいに リリー・マルレーン


その楽曲は“リリー・マルレーン”という女性の名前をタイトルにした不思議な魅力を持つ歌だった。
さかのぼること二十数年…第一次世界大戦の最中、ハンブルクで教師をしていたハンス・ライプ(作詞者)はドイツ軍に召集され、ロシアと対峙する東部戦線へ出征した。
当時、彼にはリリーという名の彼女(食料品店勤務)がいた。
1915年、彼は戦場へ出兵する前に一篇の詩をしたためていたという。
そこには、恋人を想う兵士のやるせない心情が綴られていた。

もう門限の時間がやってきた
「ラッバが鳴っているぞ!遅れたら懲罰房3日だ!」
「わかりました!すぐに戻ります!」
僕たちはお別れを言った
君と一緒にいるべきだったのか リリー・マルレーン

もう長いあいだ見ていない
毎晩聞いていた君の靴の音
やってくる君の姿
僕が運(つき)に見離されてもしものことがあったなら
あの街灯のそばに誰が立つんだろう
誰が君と一緒にいるんだろう


ハンスは22年前に綴っていた詩を、1937年に『Das Lied eines jungen Soldaten auf der Wacht(歩哨にたつ若き兵士の歌)』というタイトルで出版した。
翌年、その詩にドイツの作曲家ノルベルト・シュルツェが曲をつけ「リリー・マルレーン」という楽曲が誕生した。
この歌と運命的な出会いをしたララ・アンデルセンは、レコード発売のチャンスを掴む。
それは、奇しくも第二次世界大戦が開戦した1939年の出来事だった。
当時はドイツ国内で約700枚がリリースされただけで…しかも売り上げは60枚だったという。
販売店に山積みになってしまった売れ残りを、店員がドイツ軍の前線慰問用レコードの中に紛れ込ませたことにより「リリー・マルレーン」は放送などで時々かけられるようになる。
戦火の下、ドイツが占領したベオグラード放送から流れるこの歌に、ドイツ兵だけでなく、イギリス兵をはじめ、連合国側の兵士たちが耳を傾けていた。
当時ナチスドイツの占領下では「恋人たちの別離を歌った陰鬱な歌詞が士気に悪影響を及ぼす」として放送禁止となってしまう。
さらにイギリス軍はドイツの放送を聴くことや、この歌を口ずさむことを禁止したが、それでも戦地での人気は一向に衰えなかったという。
当時“21時57分にはベオグラード放送にダイヤルを!”を合言葉に、この歌は国を超えて愛唱されることとなる。
「リリー・マルレーン」何故こんなにも愛されたのか?
当時ドイツの将軍でありながら堂々と ヒトラーを批判したエルヴィン・ロンメルは、こんな言葉を残している。

「たとえ命令違反になっても、我々は敵軍のラジオ放送を聴いていた。当時、敵軍の放送を聴いているのは我々だけではなかった。イギリス第八軍の捕虜の話によれば、イギリス兵氏たちもまた、ドイツ軍の放送を聴いていた。特にベオグラードから放送される“リリー・マルレーン”は彼らのお気に入りだった。そのセンチメンタルなメロディーは、われわれ戦う両軍のあらゆる人たちに、この世には爆弾や砂漠以外にたくさんのものがあることを、今さらのように思い出させてくれた…」

そんな戦地の状況を知る由もなく…彼女は下積み時代に親しくなった多くの音楽家たちがユダヤ人であったこともあり、ナチスから歌手活動を禁じられてしまう。
そのショックと政府への抵抗もあり、彼女は一度自殺を図るが未遂に終わる。
その後、歌手活動の再開を許可されたものの、帝国文化院の監督下に置かれた彼女に「リリー・マルレーン」を歌うことは許されなかった。
ナチスドイツの宣伝相の命令で、勇壮なドラム伴奏を付けた“軍歌版”の新たな「リリー・マルレーン」を押し付けられた上に、終戦まではプロパガンダに関わる活動ばかりを強いられたという。
一方、ナチス政権を嫌い、ドイツを離れてアメリカの市民権を得ていたベルリン出身の女優マレーネ・ディートリヒが連合軍兵士を慰問した際に「リリー・マルレーン」を歌ったことにより、アメリカでも愛唱されることとなる。


時々おとずれる静寂の中で
君の唇を思い出すんだ
夜霧が辺りを覆いつくす晩には
あの街灯の下に立っているから
昔みたいに…リリー・マルレーン


第二次世界大戦の終戦直前、40歳を迎えた彼女は歌手を引退する。
北海に浮かぶ東フリースラント諸島のランゲオーク島に移住して、1949年にスイス人作曲家と再婚をしている。
1952年には、夫と共作した楽曲を歌うようになる。
1960年代、五十路を迎え再び歌手活動を再開させた彼女は、ヨーロッパとアメリカ、カナダのコンサートツアーを敢行したほか、1970年になるとテレビ番組に多数出演して活躍をする。
1972年に出版した自伝がベストセラーを記録したが…その出版直後に彼女はウィーンで帰らぬ人となった。




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