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天国へ逝った越路吹雪に「眠られぬ夜の長恨歌」を書かずにはいられなかった岩谷時子の孤独

2018.03.30

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越路吹雪は宝塚歌劇団の男役で戦中から戦後にかけて活躍した後に、女優としても歌手としても映画やテレビ、舞台の分野で日本のエンターテイメント界を牽引し続けた。
そして現役の大スターのまま燃え尽きるように、1980年11月7日の午後に56歳で亡くなった。

越路が亡くなった後、マネージャーだった岩谷時子は悲しみの底に沈んで、わずか35キロという体重になってしまった。
そんな状態だったときに天国の友に向けて書いたのが、「眠られぬ夜の長恨歌」という詩である。

越路吹雪よ
淋しくはないか
私は淋しい
越路吹雪よ
顔が見たい
声が聞きたい
この息が絶えるときまで
私のなかに抱きつづけようと
もはや言葉も交わせぬとは
なんという
もどかしさ


15歳の時に越路吹雪と出会って以来、岩谷は終生にわたって深い信頼関係で結ばれて、最期までマネージャーとして支えていた。
作詞家としても昭和の歌謡史に残るヒット曲やスタンダードの数々を生み出して、「恋のバカンス」や「夜明けのうた」「いいじゃないの幸せならば」などの作品では、日本の女性の生き方にまで大きな影響を与えている。



岩谷が作詞家となるきっかけとなったのは、宝塚歌劇団を退団した越路が1952年にシャンソンを題材にしたレビュー『巴里(パリ)の唄』で、トリを務める大役に抜擢されたことだった。

その時に越路が歌うことになったエディット・ピアフの「愛の讃歌」に、日本語で歌えるようにと訳詞を書いたことがきっかけで、岩谷はマネージャーのまま作詞家の道を歩むことになった。
そして女性ならではの視点と感性で、男性中心だった日本の音楽シーンに新しい風を吹き込んだ。

しかし、常に越路のマネージャーであることを最優先していた岩谷には、悔やまれることがひとつだけあった。
それは亡くなる7ヶ月前、4月上旬に始まった芝居の稽古に関して、なるべく立ち会わないようにとしたことだという。

新たな境地を開拓したいという思いから演劇に挑戦した『古風なコメディ』は、劇団民藝の重鎮だった宇野重吉が演出を手がけることになった。
民藝の看板俳優だった米倉斉加年と2人だけの芝居も初めてなら、民藝の稽古場に出向くのも初めてのことだった。

稽古が始まってしばらくは現場に付いていた岩谷だが、マネージャーが常に立ち会っていると、初めて演技指導する宇野も気にするのではないかと考えた。
越路吹雪も注意される姿を見られるのはいやだろうと判断し、必要な時以外は顔を出さないようにと気を使ったのである。

心配なので、終わって帰宅する時間には、越路さんの家に行き、その日の様子をきくことにしていたが、あるとき、私にいった。
「私だってね、泣きたくなることもあるよ。いてほしいときもある」
可哀そうなことをしたと、今も、これだけは悔やまれてならない。


1966年から始まってロングランを続けていた「越路吹雪リサイタル」を演出していた浅利慶太は、公演が10数年にわたって大成功した原因を、すぐれた才能が集まったチームワークの勝利だと述べている。

マネージャーで作詞と訳詞を行う岩谷時子、演奏と作曲および編曲・指揮を担当する夫の内藤法美、それに東芝の天才的なディレクターだった渋谷森久など、才能のある人たちがまわりに揃っていた。
そこに加わった舞台を演出する浅利慶太にも、美術家の金森磐と照明家の吉井澄夫という、不動のメンバーがついていたのだ。

越路吹雪の歌の世界は彼女ひとりで創り上げたものではなく、スタッフがみなで支え合うチームによって創り上げられたものだった。
そうしたリサイタルに比べると、劇団民藝の稽古場は完全にアウェイの状態に置かれたことになる。

その精神的な重圧は、かなり堪えたに違いない。
やがて公演が始まったが出演の最中から、越路はしきりに胃の激痛を訴えるようになり、公演が終了した直後に緊急入院して手術を受けることになる。

浅利慶太は『古風なコメディ』について、著書のなかでこのように述べている。

一九八〇年六月、かの女の亡くなる五ヶ月前のある日、宇野さんの演出でかの女が演じた『ターリン行きの船(アレクセイ・アルブーゾフ作)』の舞台を西武劇場に見に行った。実に複雑な心境だった。楽屋を訪ねてもなにも言えなかった。その次にじっくり話ができたのはかの女が入院する前日。二人きりで二時間さまざまのことを、心を通わせて話した。入院前孤独にうちひしがれる彼女を慰めることができたと思う。
私は彼女が死の床に赴くことを知っていた。


岩谷が生涯を尽くした最愛の友、越路を失った後にはまったく思いもかけない、親族による遺産問題が起こった。
越路の兄弟から金銭的な疑いをかけられた岩谷は自らの収入の出所を証明するために、貯金通帳や確定申告書まで提出して身の潔白を証明しなければならなかった。

喪失のかなしみを共にすると思っていた越路の兄弟の行動に、岩谷は自分の甘さに呆れるしかなかったという。
そのことを自著のなかで、「立ち上がれないほどの哀しみの上に、孤立無援の侘しさが私に追い打ちをかけた」と記していた。

越路吹雪よ
そこは住みよい処だろうか
越路吹雪よ
あなたとの別れは
あまりにも早すぎ
私が希望を探すには
おそすぎた
越路吹雪よ
越路吹雪よ
逢いに行ってはいけないか
越路吹雪よ…


孤独のなかで越路吹雪に対して、「眠られぬ夜の長恨歌」を書かずにはいられなかった岩谷時子の孤独は深い。
それでも岩谷は孤独から立ち上がって復活し、ふたたびミュージカルの仕事で活躍した。
そして昭和から平成までを体験し、 2013年10月27日に97歳で大往生を遂げて天国へと旅立ったのである。


(注)本コラムは2013年11月7日に公開した「11月7日 天国の越路吹雪に贈る、愛にあふれたメッセージ」に大幅加筆して改題したものです。なお本文に引用した岩谷時子の文章は、岩谷時子著「愛と哀しみのルフラン」(講談社)、浅利慶太の文章は、浅利慶太著「時の光の中で 劇団四季主宰者の戦後史」(文藝春秋)からの引用です。

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