引退するか、現役を続けるのか、「ハーフハーフぐらい」と答えていた女子フィギュアスケートの浅田真央選手が、2015年5月18日に開かれた記者会見で正式に現役続行を表明した。
浅田真央は会見で、「休養中の1年間は『できる、できない』の繰り返し。先のことは誰にも分からないし自分にも分からない。時の流れに身をまかせて生活してきた」とも語った。
その後はパーソナリティーを務めるTBSラジオの『浅田真央のにっぽんスマイル』に生出演。テレサ・テンのヒット曲「時の流れに身をまかせ」をオンエアした。
番組では「チョイスがちょっと渋いと思ったけど」と照れながら、休養期間中に「何ができるのか、思い浮かばなかったとき、この曲を聴いて気持ちが楽になった。ジーンとくる」ともコメントしたという。
確かに歌詞の”あなた”という言葉を”スケート”に置き換えると、浅田真央がこの曲に”ジーンとくる”ことが頷ける。
今は”スケート”しか愛せない……。
外国人であるテレサにとって、日本語の歌を正しい発音で歌うためには、正確な音韻を自然なイントネーションで発声することが何よりも大切だった。そして日本語を話せないテレサは、歌詞の意味を英語に訳してもらって理解していた。
だからテレサは“あなた”という言葉の“you”を、自分にとっての最も大切な生きがいとの関係で捉えていた。テレサにとって「時の流れに身をまかせ」の“あなた”は、不倫ソングの恋人などではなく、“歌”だったのである。
今は”歌”しか愛せない……。
浅田真央が“あなた”という言葉をテレサと同じく、最も大切な生きがいという意味に受けとめたとすれば、歌の真髄が伝わっていたということになる。
テレサと浅田真央を結びつけたのは、一途に恋の道を歩む女性の物語に託された作者からのメッセージだった。
「時の流れに身をまかせ」を創り出したソングライター、作曲家・三木たかしと作詞家・荒木とよひさの作品には、自分が選んだ歌を究めるために、一途に生きている孤高の歌手テレサ・テンへのリスペクトが込められている。
作曲家・三木たかしの母、時子さんは、若い頃にシャンソン歌手を目指したが断念し、その夢を子供たち託した。終戦後の混乱がまだ続いていた時代に、電気代が払えずロウソクの明かりで暮らす貧しい生活だったが、子どもたちにはいつも歌を聴かせて育てた。
夢を託された三木たかしは、歌手を目指して作曲家の船村徹に弟子入りした後、師のアドバイスで作曲家になると、1968年に「夕月」で初めて大ヒットを放った。
それを歌ったのが黛ジュン、幼い頃から歌手になる為に厳しい練習を課せられて育った妹である。中学卒業後は米軍キャンプでジャズを歌って鍛えられ、前年に「恋のハレルヤ」でデビューを果たした新人スターだった。
母の夢は、苦労を重ねた兄妹によって叶えられた。
浅田真央の母・匡子さんにも、家庭の事情で幼いころに諦めた夢があったという。それはプロのバレエダンサーになることだった。結婚して二人の女の子に恵まれた匡子さんは、姉の舞と妹の真央には幼少時からバレエを習わせた。
浅田真央が初めてリンクに立ったのは5歳の時で、足首が鍛えられてバレエが上達するからと、匡子さんはフィギュアスケートも学ばせた。ところが姉妹はバレエに役立てるためだったフィギュアで才能を発揮し、小学生で全日本の新人発掘合宿に招集されるほどの上達をみせる。
この子たちをフィギュアの選手に育てる。そう決めた両親はスケートを優先させる生活を選び、母は姉妹に付き添って猛練習を課して、成功に導いた。
匡子さんは48歳の若さで世を去ったが、亡くなる直前に病床から2人の子どもたちへ、「あなたたち姉妹には2人で生きていけるレールは敷きました。もう私はいつ亡くなっても大丈夫」と話していたという。
姉の浅田舞はフィギュアの選手を引退後、スポーツキャスターとして活躍中だ。そして再び世界に挑戦するという浅田真央選手に、母はこんな言葉も残してくれていた。
孤独だよね、フィギュアって。365日の結果が4分で出てしまう。100%金メダルを獲れる保証なんてどこにもない。でもね、一日一日積み重ねてやってきたものは、結果すら超えて、真央をもっともっと魅力的なスケーターに成長させてくれると思う。
(注)引用元 週刊アサヒ芸能 2011年 12/29・1/5号 浅田真央 母が残した「娘への遺言」(3)「20代の金メダルに価値がある」http://www.asagei.com/3169
*このコラムは2015年5月に公開されたものに一部加筆しました。

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