「本物の音楽」が持つ“繋がり”や“物語”を毎日コラム配信

TAP the POP

Extra便

作家・阿佐田哲也(色川武大)が呼びかけたプライベートな催しで乗りに乗って唱いまくったキャロル・スローン

2019.01.04

Pocket
LINEで送る

ニューヨーク・ジャズ・カルテット(N.Y.J.Q)の一員として1977年10月に初来日したジャズシンガーのキャロル・スローンは、当時40歳だったがすでに「知る人ぞ知るかつての歌手」といった存在になっていた。

1961年にメジャーのコロンビアで吹き込んだデビュー・アルバム『アウト・オブ・ザ・ブルー』と、ニューヨークの30th Streetにあったコロンビア・スタジオに聴衆を招いて作られた公開録音盤『Live At 30th Street』(1962年)が好評だったにもかかわらず、彼女の新作はそれからもう10年以上も出ていなかった。



内外に実力を認められていながらもコマーシャリズムに乗りきれないという理由から、キャロルは一時的に歌をやめて事務職で働いていたこともあったという。

来日コンサートのセットリストは第1部がN.Y.J.Qの演奏、第2部になってキャロルとジョニー・ハートマンが、それぞれ5曲ずつ歌うという構成だった。
しかし会場に足を運んでいたジャズ評論家の野口久光が、アルバムのライナーノーツにこんな文章を残している。

彼女の歌に期待して行った人にはたった5曲ではいかにも食い足りない。ハートマンがもう一つ乗らず、前回よりもよくなかっただけにキャロルにもっと歌って欲しいと思ったファンは多かったようだ。そういうファンの失望、欲求不満に応えるかのように彼女は短い滞在中に日本で2枚のアルバムを吹き込んで帰った。


キャロルが来日時に2枚のアルバムを吹き込んだのは、招聘元のオールアート・プロモーション社長である石塚孝夫が、日本におけるレコード発売の権利を得ていたから可能になったものだ。



東京でレコーディングした2枚のアルバムのうちの1枚『ソフィスティケイテッド・レイディ』は、以前から彼女がレコーディングを希望していた企画で、敬愛するデューク・エリントンの作品集だった。

しかしながらキャロルの企画に対して、アメリカのレコード会社はどこも興味を示さなかったという。
ところが日本から石坂という具眼の士が現れてN.Y.J.Qの来日公演に参加させたばかりか、念願だったデューク・エリントン作品集を日本向けではあっても、ついにレコードにしてくれたのである。

やがて名盤との評価を得た『ソフィスティケイテッド・レイディ』は、アメリカにおけるキャロルの復活をも手助けすることになる。
さらにはこの初来日時に熱心な日本のファンによる私的な集まりに招かれて、キャロルが思う存分に歌っていたという事実が後に明らかになった。



その集まりを主催したのは翌年に直木賞作家となる色川武大、当時は阿佐田哲也のペンネームで麻雀小説をヒットさせていた人物である。

1981年に出た「ジャズ批評 No.62」 [私の好きな一枚のジャズレコード’88] (ジャズ批評社)のなかで、色川はその晩の模様を書き残していた。
それによるとどうやら色川本人が仕掛け人となって、音楽が好きな仲間内だけで、キャロルの歌を聴く催しを開いたことがわかる。

文中に出てくる「一夜貸してもらった」という言葉遣いには、戦後の混乱期に麻雀や博打で生きていたアウトローならではの凄みがある。

キャロル・スローンはジョニー・ハートマンやローランド・ハナ、ジョージ・ムラーツなどと一緒にニューヨーク・ジャズ・カルテットの歌手として来日していたのを、招聘元のオール・アート石塚さんの好意で一夜貸して貰った。
実に洗練された感度のいい歌手であるが、アメリカではシャウトするタイプでないこういう小味の人はあまり一般受けしないらしい。
もう40歳を超えて経歴も古いのに、アメリカで、『アウト・オブ・ザ・ブルー』『ライブ・アット30th・ストリート』という2枚しかLPが発売されてない。
日本では近年、その後者が発売されているきりだったのでちょっと心配したが、当夜現れた客の1人、和田誠チャンなどは彼女のアメリカ盤の2枚を抱えてきて、サインをねだったのにはおどろいた。
具眼の士はどこにだって居るのである。
当夜、キャロルのできはすばらしく、というより乗りに乗ってしまって、3時間近く、打ち合わせなしに唱いまくってくれた。


当夜とは、昼にレコーディングを行った10月16日のことだった。
おそらくは会場費や謝礼などは色川が準備し、選ばれた知人だけが声をかけられて会費を払って参加したのであろう。

我々が呼んだ当夜は、その吹き込みの帰りで、おまけに右腕がしびれているとかで、沈んだ表情だった。
それが途中で乗り出した。そのくらいよい客だった。
客の半分ぐらいはプロのジャズマンだったが、皆ごきげんで飛び入りしてきた。
この夜、無伴奏で唱った「カム・サンディ」を、出発の朝7時にスタジオに行って吹き込みを足したという。


幸いなことに無伴奏で歌ったその「カム・サンディ」は、『ソフィスティケイテッド・レイディ』に収められたので、今では誰でも試聴することが可能だ。




ところでキャロルはその晩、色川が差し出したギャラを固辞して受け取らなかったという。
そして不幸な子供がいる施設に寄付してくれと断ってから、「次回からはしっかりいただく」からとも言った。
キャロルは唱っている時だけでなくオフステージでも、気さくで暖かい「いいおばさん」だったと色川は記している。



1977年の初来日を境に自身を持って蘇ったキャロルは、ジャズシーンに復帰して歌うことによって運気を取り戻していく。
その時期からアメリカでもマイナー・レーベルでの新しい録音が徐々に増えて、再評価が成されたことによってメジャー・レーベルからも、新作のCDが発売されるようになったのである。

帰国した後も、色川のもとにはキャロルからの手紙が届き、ふたりの交友はその後もずっと続いた。
キャロルはたびたび来日するようになり、日本のファンのために歌った。



色川もまたこの年から運気が一気に上昇し、本名で刊行された『怪しい来客簿』によって泉鏡花賞を受賞する。
純文学作家の「色川武大」としては、16年ぶりの復活であった。

そして翌年には『離婚』で第79回直木賞を受賞し、そこからは本名と阿佐田哲也の両刀使いで、唯一無二の体験と経歴を持つ”無頼派”作家として活躍していく。

だがそれから約10年後、色川は1989年の春に心筋梗塞で倒れて、まもなく60歳で没した。

キャロルは今も現役最年長歌手のひとりとして活躍しているという。


Pocket
LINEで送る

あなたにおすすめ

関連するコラム

    関連記事が見つかりません

[Extra便]の最新コラム

SNSでも配信中

Pagetop ↑

トップページへ