初めて森田童子に会ったのは、1975年10月のことだ。大学を出て音楽業界で働くようになり、主にフォークやロックの分野で原稿を書き始めていた当時、私はまだ23歳だった。
「さよならぼくのともだち」というシングル盤で、レコードデビューすることになった森田童子は、私と同じ1952年の生まれで、誕生日は1週間しか違わなかった。しかも小劇場の演劇などに関わって音楽の道に入ってきたところも、やや共通していた。
だが、事前にレコード会社から渡されていたテスト盤のレコードを聴いて、あまりに繊細で壊れもののような印象を受けて、取材するのがいささか億劫に思えたのも事実だ。
レコードデビューが決まった時に作成された簡単な資料の中には、彼女が歌で伝えたい思いがこのように記されていた。
MESSAGE
いまわたしは わたしたちの過ぎていった青春たちに 静かにとても静かに 愛をこめて唄いたい。
(森田童子)
森田童子が「歌う」ではなく、「唄う」という表記をしていたことに,私は興味を持った。「歌」が届く範囲は大きいが、「唄」だとずっと近い感じがする。
彼女が「愛を込めて唄いたい」のは、「言葉」に込められた思いを共有できる限られた人ではなかったか。「青春たち」という言葉からは、友人もしくは同士への強いこだわりが感じられた。
過ぎ去っていった「青春たち」への、徹底したこだわりこそが歌う力となっているということは、「さよならぼくのともだち」を聴き始めた瞬間から、明確に伝わってきた。
そういう「言葉」の人だからこそ、間違いなく初対面の人と話をするのが苦手だろうと思った。想いが言葉とともに作品に込められているとすれば、それ以上を言葉で語る必要はないからだ。
実際に取材の日に会ってみて、予想はすべて的中していることが分かった。ミラー加工された大きなサングラスの森田童子は、ほとんど自ら言葉を発しなかったし、喜怒哀楽といった表情も見せることもなかった。
当然だと思った。言葉で話せないから、彼女は歌を作り、唄っている。だが、取材そのものを嫌がっているようでなかったのは救いだった。
原盤制作をしていたJ&Kのディレクター・麻生静子氏と、ポリドールレコードの宣伝プロデューサーだった市川義夫氏が、わかる範囲で私の質問に答えてくれた。
そんなやり取りの中で、無理に話を聞き出そうとは思わなかったのが良かったのか、高校時代に同じような体験をしたことが分かったせいか、どこか通じ合えているような感覚になった。
そのうちに彼女の方から、時おり質問に答えてくれていた。そうした数少ない発言の中から、私はこんな断片的なフレーズをメモに残した。
「言葉の確かさから出発した音楽」
「何よりも言葉が大切」
「私のあまっちょろい言葉を打ち消す音が欲しかった」
「(オートバイの)生のブルンブルンという音が、私にとって必要だった」
彼女を見出した麻生氏が説明してくれた話では、普通とは違うレコーディングの方法が興味深かった。
当時のレコーディングでは、シンガー・ソングライターの場合、まずはミュージシャンたちと一緒にスタジオでセッションし、バックの音を録音する。それから必要な楽器をダビングして、歌を仕上げていくのが標準的であった。
しかし、極端に人見知りする森田童子の場合、最初に一人だけで歌とギターを録音しておいたテープに、ミュージシャンたちがいろいろな音をかぶせて仕上げていったという。
それでも「何よりも言葉が大切」なので、歌詞がよく伝わらない箇所や聞き取りにくいところでは、ベースの音を絞り、時にはミュートした。シングルに続いて発売したアルバム『GOOD BYE』で、ドラムの音を全く使用していないのも、そうした理由からだった。
その代わりに楽器でなく、効果音や擬音が随所に使われることになったところが、演劇的な発想だった。
アルバムのA面では、1曲目の「早春にて」で、歌の終わりに耳を突くようなジェット機の撃音が、「地平線」では強烈な雷が入っている。また「雨のクロール」は、レベルが最初から低く録音されていて、後半だけが普通のレベルになる。
その分だけ音像が近づいて、強いイメージを与えるようにしたのだという。それらのアイデアや希望はいずれも、森田童子の意向によるものだった。
アルバムの全体から受けるのは強いセンチメンタリズムで、歌詞と歌声による悲しさや寂しさ、いたたまれなさと孤独感が、音楽によって強調されている。
その日の取材の最後。生でも歌を伝えたいので、6大都市のライブスポットを年内に回るという話が出た。
歌をつくる人=ソングライターではあっても、シンガーとしての面はそれほど表に出してこなかった森田童子が、コンサートにも出ていく。
商業主義的な傾向が強い音楽業界の中で、そうした活動を行うことに本人は不安が大きいであろうと思って、そこのところを尋ねてみると、「とても難しいことだと思う」と、正直な言葉が返ってきた。
それから、「感覚も体力という気がしてくるので、そのためにラジオ体操も始めたんです」と言った。
その時、森田童子がサングラスの奥で、初めて小さな笑みを漏らしたように思えた。
ご冥福をお祈りします。
(注)本コラムは2018年6月12日に公開されました。
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▼場所/横浜市開港記念会館講堂(ジャックの塔)
▼出演
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畠山美由紀 with 高木大丈夫(ギター)
奇妙礼太郎 with 近藤康平(ライブペインティング)
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SS席 9,500円 (1・2階最前列)
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A席 6,500円
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