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プリンスの足跡〜アーティストとしての“自由と権利”を守り貫いた孤高の天才

2024.04.21

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孤高の天才、プリンス(Prince)の足跡


1983年。マイケル・ジャクソンが『スリラー』で世界を席巻している頃、彼と同い年の二人のアーティストが翌年迎えることになる大ブレイクを前に、その魅力をゆっくりとポップミュージックの最前線に浸透させていた。

一人はニューヨークのダンスフロアを揺るがせていたデビューしたてのマドンナ。そしてもう一人は、1982年にリリースされたアルバム『1999』やシングル「Little Red Corvette」で初のTOP10ヒットを放っていたプリンス。その妖しげなルックスと独創的なサウンドで異端扱いを受けていたプリンスだったが、開局したばかりのMTVに慣れ親しんでいた若い世代ならみんなこう思ったはずだ。「この男はきっと何かをやってくれる」「次で必ず大きく化ける」と。

プリンス・ロジャー・ネルソンは、1958年6月7日にアメリカの中西部ミネソタ州ミネアポリスで生まれた。複雑な家庭環境によって孤独な幼少時代を過ごすが、彼には音楽があった。と言ってもミネアポリスは白人の土地であり、黒人の人口比率はわずか3%。ネットやSNSなどなかった1970年代、プリンスの耳と心は自然にラジオから流れてくるロック・ミュージックを捉えていく。中でもカルロス・サンタナのギターがお気に入りだった。

1978年4月、19歳の時にアルバム『For You』でワーナーからデビュー。新人としては異例のセルフ・プロデュース権を得て、アレンジ、作詞作曲、歌、演奏すべてを一人でやってのけた(単独多重録音)。経費削減のためにシンセサイザーを活用してファルセット・ヴォイスを多用したこの作品はヒットこそしなかったものの、早熟の孤高の天才として忘れてはならない原風景だ。


その後年1枚のペースでアルバムを発表。しかし、ジャンル分けなどできない唯一無比なサウンドに加え、官能的すぎる歌詞やヴィジュアルワークは当時のメインストリームの音楽ファンには理解不能だった。1981年にローリング・ストーンズの公演の前座を2日間経験して、大ブーイングを喰らってモノを投げつけられて開始20分でステージを下りたのは有名な話だ。プリンスは屈辱に耐えられずに人知れず涙していたという。

だが、自らのバンドを“ザ・レヴォリューション”と名づけた『1999』から一気に状況が変わっていく。一部のヒップな若者たちから支持されていたプリンスは、遂に1984年『Purple Rain』で世界の頂点に立つ。これは自伝的映画のサウンドトラックとしてリリースされたが、まだ数年のキャリアを積んだに過ぎないプリンスが映画に主演すること自体、無謀なこと。にも関わらず映画は大ヒットした。音楽の力が作用したのだ。

本作のために100曲を書いたと言われているが、革新的な「When Doves Cry」をはじめ、ギタリストとしての類稀な才能が聴こえる「Let’s Go Crazy」や大バラードのタイトル曲などが厳選され、ビルボードチャートで24週連続ナンバー1を独走して世界中でビッグセールスを樹立する。


同時期は何かとマイケル・ジャクソンと比較され(音楽性ではなく黒人スターとして)、それはまるで60年代の優等生ビートルズと不良ストーンズのような位置づけだった。マイケルにはクインシー・ジョーンズというパートナーがいたが、セルフ・プロデュースのプリンスにはいない。マイケルは寡作家だが、プリンスは多作家。マイケルには本当の兄弟のジャクソンズがいるが、プリンスはザ・タイム、アプロニア6、シーラ・Eといった音楽ファミリーを築く。

なおこの頃、アメリカのスーパースターが一堂に会してチャリティーソング「We are the World」を録音したが、実はプリンスはマイケルと並んで歌うはずだったがドタキャンしている。マイケルが作ったこの曲はもちろんクインシーがプロデュースすることになっていた。

『Purple Rain』のリリースから10か月後。新作『Around the World in a Day』が突如届けられる。普通なら成功に酔いしれて数年開けたり、約束されたアルバムをさらに売るためのツアーに明け暮れるだろう。しかしプリンスは違った。自らのレーベル「ペイズリー・パーク」や同名のスタジオを設立し、「同じようなアルバムは二度と作りたくない」という美学のもと、ワーカホリックとも揶揄される彼の本当のアーティスト人生はここから始まっていくのだ。それはプリンスが“エンターテイナーではなくミュージシャン”であろうと決心した証だった。

1986年、酷評された主演第2弾映画『アンダー・ザ・チェリー・ムーン』と『Parade』。ザ・レヴォリューションの解散。1987年、『Sign o’ the Times』と『The Black Album』発売直前の中止。1988年、『Lovesexy』とスキャンダラスなヌード姿のジャケット。1989年、『Batman』と自身のレーベル経営状況の悪化。1990年、主演映画のサントラ『Graffiti Bridge』……プリンスは毎年のように新作アルバムをリリースし続けた。ライヴやプロデュース業や楽曲提供(スティーヴィー・ニックス、チャカ・カーン、バングルズ、シンニード・オコーナーなどが有名)をこなしながらという、まさに驚異的な仕事量だ。


1990年代。ヒップホップ、クラブミュージック、オルタナティヴ・ロックが台頭して、80年代的なアーティストやカルチャーが敵対視またはアウトなものになっていく風潮の中で、それでもプリンスは走り続ける。1991年、バンドを“ニュー・パワー・ジェネレーション”にしての『Diamonds and Pearls』。1992年、『Love Symbol Album』。

同年、ワーナーと破格の1億ドルで6枚のアルバム更新契約を結ぶが、音楽産業の制約やマーケティングに嫌気が差して、1993年にはプリンスという名を捨て去り、男性(♂)と女性(♀)を融合させたシンボルマークに改名してしまう。メディアは混乱して「かつてプリンスと呼ばれたアーティスト」(The Artist Formerly Known As Prince)と呼ぶことになった。翌1994年の『Come』では、クレジットに1958-1993と記して自らを葬った。

「ペイズリー・パーク」レーベルの経営危機、昔の仕事仲間たちがワーナーから去ったこともあって、プリンスはこの頃を境にメインストリームから外れていく。しかしそれはシステムから自由と権利を守るためであり、好きな時にレコードが作れて、自分のコントロールでというアーティストとしての美学と信念に基づいた行動だった。

魂を操られる奴隷になるくらいなら、“革新的なインディペンデント”であろうとしたのだ。90年代半ばには誰よりも早くインターネットでファンと自分の音楽を繋げようとしたことも決して忘れてはならない。新聞や雑誌の付録で新作を無料配布したり、ディスカウントショップ限定で売ったり、コンサート招待チケットをCDに導入したりと、自身の音楽に対する届け方も常に斬新だった。


愛する子供を亡くしながらも、永遠の愛を誓った妻と離婚しても、男は孤独に闘い続ける。ゼロ年代には“プリンス”としてカムバック。2004年には『Musicology』でヒットチャートに復帰。ツアーも盛況してロックの殿堂入りを果たした。2006年、『3121』が17年ぶりのナンバー1に輝く。2007年、スーパーボウルのハーフタイムショーに登場。

プリンスというあり方は、次第に新しい世代にも受け入れられ、再評価も高まってきた。不可解な人種差別事件にもいち早く反応した。音源がアーティストの許諾なしにネット動画などで勝手に共有流布される事態にも確固たる姿勢で立ち向かった。

そんな矢先……プリンス、逝く。2016年4月21日。享年57。
アーティストとしての“自由と権利”を守り貫いた孤高の天才の足跡は、余りにも感動的だ。

PRINCE 1958.6.7-2016.4.21
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*参考/『プリンス論』(西寺郷太著/新潮新書)
*このコラムは2016年4月に公開されたものを更新しました。

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■中野充浩のプロフィール
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