月刊キヨシ

高倉健さんの流儀

2014.11.30

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「カメラ・テストを受けにいって、顔にドーラン塗られたら、ポローッと涙が出ましたよ。そういう土地柄で育ったものですから。九州の川筋(炭鉱街)はそういう気風がとりわけ強いんです」


好んで選んだ道ではなかった。俳優という職業と自分とをどうおりあいをつけさせてゆくのか。最後まで悩み続けた高倉さんの出発点がここにある。

「走りだしたら、とまんないですよ、ぼくは。もしかりに、自分が愛を感じるものに本当に何かあったらやっぱり人を殺しにでもいくでしょうね。どうにも抑えきれない何かを持ってますよね。自分の血のなかにそれは感じます」


撮影が終わるたび、高倉さんは消息を絶った。
西表(いりおもて)の海岸にいたとか、リスボンのカフェで見かけたとか、ときに絵葉書が舞い込むとか、風のたよりが聞こえてくることもあったが、本当の行方は誰も知らない。

「手に負えない自分がいますね、まちがいなく。俳優になっていなかったら怖いですよね。
おとなしそうに見えるかもしれないけど、本当は気が強い。頑固ですぐきれる。ちっともストイックなんかじゃない」


与えられた役を演じる立場から、自由に役を選べるスタンスになってからもなにひとつ変わっていないこと。それは高倉さんがたったひとりで決断してきたということだ。

たとえば、「ブラック・レイン」(1989年)の出演交渉。
監督のリドリー・スコットは、誰ひとり伴うことなくホテルのスイート・ルームで高倉さんを待ち受けた。万が一、不首尾になっても、高倉さんに迷惑が及ぶような情報が外に洩れたりしないための配慮だった。
「もし演じてもらえないなら、私はこの企画を捨てる」
スコットのそのひと言で、出演は即決したという。

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高倉さんは、ひょうきんなところもある大阪府警の警部補という役柄をよほど気にいったのか、まるで水を得た魚のようにのびのびと演じてみせた。
その迸りとも思えるのが、高倉さんとアンディー・ガルシア、ふたりかけあいのカラオケシーン、「What’d I Say」
これは今となっては貴重な聴きものとなった。

一方、日本人出演者陣のなかには、癌におかされながらも、そのことを最後まで隠し、延命治療を拒みながら、凄絶きわまりない演技を続けた松田優作がいた。
この撮影の中で、彼は「自分たちが、日本人俳優というだけで、アメリカ人スタッフたちに尊敬され、道が拓けたのは、高倉さんという偉大な存在のおかげ」と発言している。

高倉さんは、ある老僧から教えられた言葉としてこう語ったことがある。

「今ぼくの頭の中にあるのはその職業のクラスをアップさせた人ですね。あいつがいるからって引き上げた人はやはりその道で優れている人なんだろうと思います。そういう仕事を残したということじゃないでしょうか」




参考資料:
「月刊PLAYBOY」集英社刊

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