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「生きて帰れない」とまで言われたクイーンの南米公演1981

2018.08.14

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「大規模なコンサートは無理だ、金にならないどころか生きて帰れないって言われたよ……」(『クイーン 華麗なる世界』より)


クイーンが1981年に行った南米ツアーについて、ブライアン・メイはこのように振り返っている。

当時、南米でロック・バンドがコンサートをするのは極めて稀なことだった。
その理由は主に2つ、そのうちひとつはブライアンが触れているように治安が不安視されていたこと。そしてもうひとつは、コンサートに必要な機材を揃えるのが難しいということだ。

1977年にはジェネシスがブラジルで、1980年にはピーター・フランプトンがアルゼンチンでコンサートをしている。
しかしクイーンがやろうとしていたのは、スタジアムと大掛かりな機材を使った、南米では過去に例を見ない大規模なロック・コンサートだった。

1981年の2月、日本での武道館5日間公演を成功させたクイーンは、束の間の休息をとり、そのままアルゼンチンへと向かう。
同時に20トン(あるいは40トンともいわれている)の機材が日本から、さらにはアメリカから追加でそれ以上の機材がアルゼンチンへと運ばれた。

クイーンのメンバーを乗せた飛行機が到着すると、空港のスピーカーからクイーンの曲が流れ、空港に集まったファンは歓声を上げた。
飛行機を下りたメンバーを出迎えたのは、驚くことに政府高官だった。クイーンによるコンサートは、国も無視できないほど高い関心を集めていたのだ。

コンサートは2月28日に初演を迎えた。
会場となったサッカー場、エスタディオ・ホセ・アマルフィター二は、5万4千人ものファンで埋め尽くされた。

フレディ・マーキュリーはこれまでに公演したことのなかった未知の国で、果たして自分たちが受け入れられるのか不安だったという。フレディだけでなく、メンバーそれぞれがナーバスになっていた。
だがステージに上がり、会場を包む熱気を肌で感じ取ると、そんな不安は一瞬で吹き飛んだ。
ブライアンはこのように語っている。

「みんな物珍しさでチケットを買ったんだろうと思っていた。でも観客は本物のファンで、一言一句間違えずに歌ってくれたんだ」


冒頭の「ウィー・ウィル・ロック・ユー」からコール・アンド・レスポンスが行われ、その後も度々大合唱が会場に響き渡った。
アルゼンチンの公用語はスペイン語だが、そんな言葉の壁はあってないようなものだった。



その後も、コンサートは各地で大成功となり、ツアー前に言われていたような命の危険を感じるようなこともなかった。

それにしても、なぜクイーンはこのようなリスクの大きい冒険に出たのか。
フレディは、1984年にドイツでのインタビューでこのように話している。

「僕らは南米に行ったグループの先駆け的存在だった。あれは一生忘れられない経験だよ。
僕らがツアーから帰ってきて2週間後にイギリスはアルゼンチンとの戦争に突入した(注)。
でも、ミュージシャンにとってそんなのは問題にすべきことじゃないんだ。
音楽はみんなのものだよ」(『THE DIG Special Edition クイーン』より)


自分たちの音楽を求める人たちがいるのであれば、そこに行って演奏したい、音楽を分かち合いたい。
そんなフレディの、あるいは他のメンバーも含め、音楽に対する純粋な気持ちがあったからこそ、南米ツアーは実現したのだった。




注:おそらくはフォークランド紛争のことだと思われるが、アルゼンチン軍がイギリス領だったフォークランド諸島に侵攻したのは1年後の1982年3月19日のことである


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