日本初の野外フェスティバルとして語り継がれる全日本フォークジャンボリー(通称:中津川フォークジャンボリー)が開催されたのは、1969年の8月9日のことだった。
この頃の日本は日米安全保障条約の自動延長が目前に迫り、海外ではベトナム戦争が泥沼化していったので、多くの若者が政治や世界情勢に関心を持っていた。
そんな時代に彼らの支持を集めたのが、プロテストソングを歌うフォークシンガーたちだった。
なかでも圧倒的支持を得ていた岡林信康や高石友也といった面々が出演するとあって、フォーク・ジャンボリーの開催場所である岐阜県の椛の湖に面する湖畔には、およそ3000人の若者が集まってきた。
そして翌年には第2回が開催されて、8000人近い人たちが参加することになる。
彼らが求めるのは自分たちの声を代弁して反権力や反戦を訴えるフォーク・シンガーだった。
ところがそんな観客を前にして、ごく普通の人たちの生活者としての歌をうたったのが、弱冠20歳の高田渡である。
1949年の1月1日に生まれた高田は、ビートルズやボブ・ディランに熱を上げる同世代を横目に、ピート・シーガーやウディ・ガスリーに夢中だったという。
そんな高田渡の名を一躍有名にしたのが1968年の第3回関西フォークキャンプでうたった「自衛隊に入ろう」だ。
自衛隊を逆説的に皮肉ったこの歌によって注目を集めた高田は、URC(アングラ・レコード・クラブ)から五つの赤い風船とのカップリングアルバム、『高田渡/五つの赤い風船』でデビューすることになった。
そうした流れを経て第1回全日本フォークジャンボリーへの出演にいたったわけだった。
しかし、そのステージで歌ったのは「銭がなけりゃ」のほかにも、「仕事さがし」、「値上げ」、「失業手当」といった身の回りにある出来事に題材をとった歌ばかりだった。
学生運動との関わりは別にして、高石友也や岡林信康のように正面切って自分の主張をぶつけるのもたしかにひとつの方法ではある。しかし僕は、自分の日常生活をそのまま歌うことが最高のプロテストソングではないかと思ったのだ。(高田渡『バーボン・ストリート・ブルース』より引用)
若者たちにウケが良かった「自衛隊に入ろう」を外したのは、周りを見る前にまず自分の足元と身の回りに目を向けるべきだと考えていたからだ。
世の中の流行やムードに流されない高田渡の振れない生き方は、はじめから最後まで一貫していたことが良くわかる。
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