デビュー間もないエルヴィス・コステロが、アメリカの人気番組「サタデー・ナイト・ライヴ(SNL)」で事件を起こしたのは1977年12月のことだった。
コステロが1stシングル「レス・ザン・ゼロ」でデビューを果たしたのはその年の3月のことだ。
プロデュースはパブロックの雄、ニック・ロウ。
当時パンク・ムーブメント真っ只中にあったイギリスにおいて、バディ・ホリーを彷彿とさせる風貌は逆に新鮮だったが、レコードはチャートインを果たすことができず、立て続けにリリースされた2ndシングル「アリスン」と3rdシングル「レッド・シューズ」もチャート圏外に終わった。
しかし、1stアルバム『マイ・エイム・イズ・トゥルー』がリリースされた頃から、風向きが変わり始める。
辛辣で社会への怒りをさらけ出した歌詞とストレートなロックのサウンドはメディアから高い評価を受け、UKチャートで14位という好セールスを記録した。
ライブのほうも好調で11月からは1ヶ月間に渡るUSツアーの旅に出る。
「サタデー・ナイト・ライヴ」から出演のオファーが届いたのは、全米各地を回っているときのことだった。
当初、番組スタッフはセックス・ピストルズにオファーを出していたのだが、ビザの申請にミスがあって渡米できなくなったため、急遽代役を探さなくてはならなかった。
次にオファーしたのはラモーンズだったが、ピストルズの代役と知ると「俺たちは誰かの代替品じゃない」として断られてしまう。
そこで白羽の矢が立ったのがちょうど全米ツアー中だったエルヴィス・コステロというわけだ。
番組中で演奏する曲を選ぶにあたり、番組スタッフから「レディオ・レディオ」は歌わないでくれと釘を刺された。
「レディオ・レディオ」は商業化してロクな音楽を流さない放送局を痛烈に批難した歌だ。
ラジオ局は馬鹿な連中の手のひらさ
人の感性を麻痺させようとしてるんだ
レーベルからは「レス・ザン・ゼロ」を提案されたが、アメリカではウケないんじゃないかとコステロは思うのだった。
12月17日、生放送が始まり、いよいよコステロの時間が回ってきた。
ステージに上がり、コステロが演奏し始めたのは「レス・ザン・ゼロ」だった。
ところが、ほんの数小節でコステロの「ストップ!」という声がスタジオに響き渡り、バンドメンバーは演奏をやめる。
「申し訳ありませんが番組をご覧の皆さん、ここでこの曲をやる理由はないのです」
そして番組側から歌うことを禁じられていた「レディオ・レディオ」を歌い始めたのだ。
当然ながら番組側は激怒し、両者は真っ向から対立、その後12年間コステロが同番組に出演することはなかった。
そしてこの事件によって、エルヴィス・コステロは“怒れる若者”としてアメリカでも知られるようになるのだった。
後にコステロは「レディオ・レディオ」を演奏した理由についてこのように答えている。
「ジミ・ヘンドリックスの真似をしたんだよ。彼がルル・ショウで同じように予定にない曲をやったんだ。それを観たのを思い出して思ったのさ。やっちまおうか?って」
それは1969年の1月4日、ジミ・ヘンドリックスがイギリスの人気番組「ハプニング・フォー・ルル」に生出演したときのことだった。
ジミは「ヘイ・ジョー」の途中で演奏を止めると、クリームの「サンシャイン・オヴ・ユア・ラヴ」を演奏し始めたのだ。
テレビで観ていたコステロは、そのシーンに衝撃を受けて忘れずにいたのだった。
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その後コステロと「サタデー・ナイト・ライヴ」は和解を果たし、1999年に放送されたSNLの25周年特番ではビースティー・ボーイズの演奏中にコステロが乱入して当時と同じセリフを放ち、ビースティーズとともに「レディオ・レディオ」を演奏して事件を再現するという心憎い演出をしている。
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