1977年。エルビス・コステロのデビュー・アルバム『マイ・エイム・イズ・トゥルー』のレコーディングのプロデューサーをつとめたのは、ニック・ロウだった。
当時、まだ自分のバンドを持っていなかったコステロのため、ニック・ロウはクローバーというバンドを紹介する。
クローバーには、ハーモニカ奏者として後にヒューイ・ルイス&ニュースで大ブレイクするヒューイ・ルイス、「シティ・ライツ」などのヒット曲を放つアレックス・コールが在籍していた。
コステロのデビュー・アルバムには、ハーモニカも、もう一人のボーカリストも必要がなかったため、この二人はレコーディングに参加していない。
だが、アレックスは鮮明に当時のことを記憶している。
「あの頃まだ、エルビス・コステロはデック・マクマナスだった。本名を名乗っていたのさ。彼は普通の、物腰の柔らかい、小さな、大人しい、スティッフ・レコードに出入りしているソングライターだった」
スティッフ・レコードは、アレックス・コールのバンド、クローバーが所属していたオフィスである。
「彼はよく、君みたいに歌えたらなあ」と言ったものさ」
クローバーの残りのメンバーとコステロが向かったのは、<パスウェイズ>と呼ばれていた小さなスタジオだ。8トラックの録音機材の他は、ミュージシャンたちが何とか演奏できる場所がある、といった最低限の環境だった。
アレックス・コールは、クローバーのベース奏者だったジョン・マクフィーが持ち帰った録音したてのテープを聴いた。
「ジョンが古いウォレンサックのテープレコーダーにリールのテープをセットして再生ボタンを押してすぐ、僕はバンドをやめることを決めたんだ。物凄い衝撃だった」
アレックスに衝撃を与えたのは、「アリスン」「レス・ザン・ゼロ」といったコステロの初期の代表曲だった。
「レス・ザン・ゼロ」は、デビュー・シングルとしてカットされた。
♪ 卍の刺青でミスター・オズワルドを呼び出し。。。 ♪
「レス・ザン・ゼロ」が容赦なく攻撃する対象は、オズワルド・モズレーである。
1896年、ロンドンに生まれたモズレーは、労働党内閣で大臣をつとめた後、離党、1932年、イギリス・ファシスト同盟を立ち上げた男である。
労働党の内紛、そして世界大恐慌という時代背景もあり、ファシスト同盟は躍進を続ける。モズレーが二人目の妻、ダイアナ・ミッドフォードとベルリンで結婚式を挙げた際には、ヒトラーとゲッペルスが出席している。
今、また、政治不信と経済の荒波が押し寄せる中、耳障りのいい極論を吐き、大衆の人気を得ようとする政治家たちが目立ってきている。。。
●Amazon Music Unlimitedへの登録はこちらから
●AmazonPrimeVideoチャンネルへの登録はこちらから
(こちらもオススメです)
デビュー作『レス・ザン・ゼロ』で新世代の代弁者に祭り上げられた20歳の大学生
レス・ザン・ゼロ~青春文学と映画に衝撃を与えたカジュアル・ニヒリズムの極致