エルヴィス・コステロが初来日を果たしたのは、サタデー・ナイト・ライヴでの騒動からおよそ1年後の1978年11月のことだ。
ツアーは23日からはじまり、大阪御堂会館や一ツ橋の日本教育会館、渋谷の西武劇場(現PARCO劇場)などを回る計6公演だった。
当時のコステロはデビューしてまだ2年目で、その年の3月にリリースした2ndアルバム『ディス・イヤーズ・モデル』は全英チャーオ最高4位という大ヒットを記録した。
ところが日本ではチャートインすら果たせなかった。イギリスでは注目の若手だったコステロだが、日本ではまだまだマイナーな存在だったのだ。
知名度の低さもあってチケットの売れ行きは芳しくなく、コンサートでは空席もちらほらと見られた。そこでコステロは大胆なプロモーションに打って出る。
そのときの心境をのちにこう振り返っている。
「これだ!って思ったよ。結果は2つに1つ、一晩中騒ぎになって俺たちのレコードがチャートインするか、逮捕されて国外追放になり、その騒動で俺たちが有名になるかのいずれかってわけさ」
そのプロモーションとは、トラックの荷台でゲリラライブをしながら銀座の繁華街を回るという驚くべきアイデアだった。レコード会社やプロモーターからは「逮捕されたらコンサートが中止になるかもしれない」として反対されたが、コステロは一歩も譲らなかった。
後日、買い物客で溢れかえる昼の銀座中央通り。そこへ突如、学ランを着た奇妙な外国人4人と楽器を荷台に載せたトラックが現れた。
トラックの側面には「エルビス・コステロ 今来日公演中」と書かれた幕が貼られている。そして彼らが演奏を始めると、銀座のど真ん中でアンプから大音量が鳴り響いた。
ところが、と言うべきか案の定と言うべきか、すぐに警官が駆けつけてゲリラライブはわずか15分で終了してしまう。そのまま逮捕されて大騒ぎになることを期待したコステロだったが、手渡されたのはトラックの過積載による違反切符だった。
コステロが国外追放をも覚悟で挑んだゲリラライブは、わずかばかりの罰金を支払うだけで幕を閉じた。
コステロにとってショックだったのは、ゲリラライブが大きな騒動にならなかったこともあるが、歩行者のほとんどが演奏に関心を示さなかったことだったという。聴いてくれた人に配ろうと用意してきたレコードを渡すことすらままならなかった。
「最終的にはレコードをフリスビーみたいな感じで投げるしかなかったんだけど、彼らはそれをキャッチしようともしないんだよ。ひょいとかわされて終わりさ」
コステロの過激な行動はこれだけにとどまらなかった。このときオープニング・アクトを務めたのはデビューしたばかりのシーナ&ロケッツだったが、鮎川誠によれば、コステロはステージ上でも演奏中にギターを壊して、ステージ裏に引っ込むなどしてファンを驚かせていたという。
10分くらいシーンとしてから、サクラかもわからんけど「コステロ!」ってコールが起こって、気を取りなおしたメンバーがまた出てきたんですよ。そしたらコステロが、レコードジャケットでも見た「エルヴィス・コステロ」って書いてあるギター持って現れて、「ああ、最初のは壊し用のやつやったのか」って。(音楽ナタリーでのインタビューより)
こうした過激なエピソードや歌詞の痛烈なメッセージ性により、エルヴィス・コステロ=怒れる若者という世間のイメージはますます強固なものへとなっていくのだが、やがてコステロの音楽が多様性を持ちはじめるとそれは大きな足枷となっていくのだった。
アメリカのTV番組で初来日を振り返るコステロ
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