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フジ子・ヘミング物語—前編〜失った国籍と聴力、まるでドラマのような経歴、動物愛護と博愛主義〜

2016.10.16

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フジ子・ヘミング。
「聴いた人が涙を流すピアニスト」
「聴力の80パーセントを失った音楽家」
「60歳を過ぎるまで全く無名だった天才アーティスト」

彼女がメディアで紹介される時に使われてきたフレーズだ。
著書を開けば、こんなドラマティックな回顧録が綴られている。

私の長い人生において、辛いことは数えきれないほどありました。
幼い頃に聞いた母のヒステリックな金切り声から始まり、国籍を持っていなかったがためになかなか海外留学できずに鬱々と過ごした若き日々。
そして成功を目前にして聴力を失った70年代。
クリスマスイヴにふとラジオから流れてきた(レナード)バーンスタインの「マーリア〜、マーリア〜」という曲に胸が引き裂かれる思いで、独り大声で泣いたことも昨日のことのよう。
さらに海外で貧困ゆえに途方に暮れた時代…。


彼女は一体どんな人生を歩んできたのだろう?
まず前編では、生い立ちから現在に至までのプロフィール及び活動歴をご紹介させていただきます。

1932年12月5日、東京音楽学校(現・東京芸術大学)出身のピアニスト大月投網子(おおつきとあこ)とロシア系スウェーデン人画家/建築家ジョスタ・ゲオルギー・ヘミングとの間にベルリンで生まれる。
一家は彼女が5歳の時に日本に帰国。
父は開戦の気配が濃い日本に馴染めずスウェーデンに戻ってしまい…以来、母の手ひとつで東京に育ち、彼女は5歳から母の手ほどきでピアノを始める。
10歳からは、父の友人だったロシア生まれドイツ系ピアニスト、レオニード・クロイツアーに師事し、17歳でデビューコンサートを経験する。
当時、クロイツアーは「フジコはいまに世界中の人々を感激させるピアニストになるだろう」と絶賛したという。

彼女は、父が日本を去ったあともスウェーデン国籍のままだったが、一度もスウェーデンに住んだことがなかったため、18歳のときに国籍を失う。
青山学院高等部を経て、東京音楽学校(現・東京芸術大学)在学中には、NHK毎日コンクール入賞、文化放送音楽賞など多数受賞。
卒業後、本格的な演奏活動に入り、渡辺暁雄指揮による日本フィルなど、数多くの国内オーケストラと共演する。
たまたま来日中だったサンソン・フランソワは、日比谷でのフジ子のショパン及びリストの演奏を聴き絶賛したという。
この頃、ドイツへの留学を試みるが…無国籍の彼女はパスポートが取れずに一般での留学を断念。
しかし、駐日ドイツ大使の助力により “赤十字難民”として28歳でドイツ留学を果たす。
ベルリン音楽学校を優秀な成績で卒業し、その後長年にわたりヨーロッパに在住し、演奏家としてのキャリアを積みながらも…生活面では母からのわずかな仕送りと奨学金で何とか凌ぎながら、大変貧しく苦しい暮らしを長らく続けていた。

日本では「異人」といじめられ、生まれたドイツでは「東洋人」と見られ、日本人の留学生からは「よそ者」とされて仲間に入れてもらえない…。
どうして?私の故郷はどこ?


この頃、彼女は「この地球上に私の居場所はどこにもない…天国に行けば私の居場所はきっとある。」と自身に言い聞かせていたという。
そんな中、ウィーンでは後見人でもあったパウル・バドゥーラ=スコダに師事する。
こうして益々実力をつけていった彼女は“リストとショパンを弾くために生まれてきたピアニスト”と称されていたという。
彼女の演奏に感銘を受けたレナード・バースタイン、ニキタ・マガロフ、シューラ・チェルカスキたちの支持と援助で、今世紀最大の作曲家・指揮者の一人と言われるブルーノ・マデルナのソリストとして契約。
こうしてウィーンで才能を認められたことは、彼女が最も誇りにしていることのひとつだという。
しかし…“一流の証”となるはずのリサイタル直前に風邪をこじらせ、聴力を失うというアクシデントに見舞われる。
既に16歳の頃、中耳炎の悪化により右耳の聴力を失っていたが、この時に左耳の聴力も失ってしまい、彼女は演奏家としてのキャリアを一時中断しなければならなくなった。(現在、左耳は40%回復している)
そして…失意の中、スウェーデンのストックホルムに移住。
耳の治療のかたわら、音楽学校の教師の資格を取得して、以後はピアノ教師をしながら欧州各地でコンサート活動を続ける。
1995年、63歳になった彼女は母の死を機に30年余りの海外生活に終止符を打ち…帰国。
「人前で演奏することはもうないだろう…」そう思ってピアノ教師を続けていたが、ある縁をきっかけに1998年から母校芸大の旧演奏堂などでコンサートを行う。
翌年には、フジコのピアニストとしての軌跡を描いたNHKのドキュメント番組、ETV特集『フジコ〜あるピアニストの軌跡〜』が放映され大反響を巻き起こす。
「フジコの演奏をもっと聴きたい」という視聴者からの要望が殺到し、番組は幾多に及び再放送され、さらに続編『フジコ、ふたたび〜コンサートin奏楽堂』も放送された。
1999年8月25日に発売されたファーストCD『奇蹟のカンパネラ』は200万枚を超える売り上げという、クラシック界異例の大ヒットを記録し、いまだにその記録を更新し続けているという。
これまで2枚のCDで日本ゴールドディスク大賞、4度にわたる各賞のクラシック・アルバム・オブ・ザ・イヤーを受賞。
2000年以来、モスクワフィルハーモニー管弦楽団、ハンガリー国立フィルハーモニー管弦楽団、ハンガリー放送交響楽団、ベルギー国立管弦楽団、イギリス室内管弦楽団他と共演。
2001年6月には、ニューヨーク・カーネギーホールでのリサイタルに3000人の聴衆が会場を埋め尽くし、感動の渦を巻き起こした。
集まった聴衆からは「マリア・カラス以来の大盛会」と絶賛の声が絶えず、大成功とともに演奏活動の幅を世界へと広げるための第一歩を踏み出した。
2007年より現在までワルシャワショパンフェスティバル、パブロ・カザルスインターナショナルフェスティバル、ソフィアインターナショナルフェスティバルなどから招待されている。
その後も、世界中の伝統あるコンサートホールでのソロ公演や世界の第一線で活動する著名オーケストラ、ロイヤルフィルとの共演は枚挙にいとまがない。
2012年には、ビクターやユニバーサルの名門レーベル・Decca Recordsから数多くの名盤をワールドリリースしてきた彼女だが、ついに自主レーベル“ダギーレーベル”を設立。
これは、彼女自身がリスナーに届けたい曲を、納得できる音質で録音し、世界に発信するという本人の音楽に対する強い決意によりために設立されたものだった。

彼女は公演活動で多忙を極める中、猫や犬をはじめ動物愛護への関心も深く、長年の援助も続けている。
また、米国同時多発テロ後の被災者救済のために1年間CDの印税の全額寄付や、アフガニスタン難民のためのユニセフを通じたコンサート出演料の寄付、3.11東日本大震災復興支援チャリティーコンサート及び被災動物支援チャリティーコンサートといった支援活動も行ってきた。
こうした人や動物を愛し支援する事を忘れない人間味溢れる人柄も多くのファンを魅了してやまないのだ。

<参考文献『フジ子・ヘミング 耳の中の記憶』フジ子・ヘミング(著)小学館>


■後編の「フジ子・ヘミング物語—後編〜報われない恋、猫との出会い、天国にある貯金通帳〜」は10/23(日)に公開予定です♪

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