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二人の共同作業〜“レノン=マッカートニー”のクレジット表記について語ったジョン

2017.03.12

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「Give Peace a Chance(平和を我等に)」は、1969年にジョン・レノンがプラスティック・オノ・バンド名義で発表した記念すべきソロデビュー曲である。
楽曲のクレジットには“レノン=マッカートニー”とされている。
当時、ジョンとヨーコは“ベッドイン”などの平和運動を通じて、シンプルに「平和にもチャンスを!」と訴えかけた。

【反戦の歌〜Give Peace a Chance〜】
http://www.tapthepop.net/news/11863


あるインタビューでジョンはこんな発言をしている。
──これはクレジットされているように“レノン=マッカートニー”の共作曲なんですか?

「違うよ。僕とポールで書いたんじゃない。当時はたとえ二人で書いた曲でなくても、気持ちとして二人の名前をクレジットすることがあったんだ。ポールと僕は法律的な問題じゃなくて15歳か16歳の時に“僕らの曲には二人の名前を入れよう”と決めたんだ。Give Peace a Chanceには、ポールはまったく関係ないのに彼の名前を入れたんだ。実際、馬鹿馬鹿しいことをしたよ。レノン=オノとすべきだったよ。」


ジョン・レノンとポール・マッカートニー。
二人はビートルズ時代にどうやって一緒に曲作りをしていたのだろう?
様々な噂や逸話がある中、ジョンはこんな興味深い言葉を残していた。

「たとえばポールが作曲したMichelleだけど、僕達がどこかに泊まっていたとき、ポールが曲の出だしを口ずさみながら部屋に入ってきたことがあった。ポールが“この先のメロディーをどうしようか?”って僕に言うんだ。その時、僕はちょうどニーナ・シモンのI Put A Spell On Youを聴いていたので、そのメロディーを真似て“アイラブユ〜アイラブユ〜アイラ〜ブユー♪”と歌ってみせたんだ。それがきっかけでMichelleのサビの部分が完成したんだよ。あれがなければMichelleはただのバラードだったね。」




このような感じで、ポップなメロディーを得意としたポールが持ってくるアイディアに、ジョンがブルースっぽい雰囲気をつけることが多々あったという。

「ビートルズではポールが“明るさ”や“楽天性”を提供し、僕が“悲しみ”や“不和”そしてブルーな感じを提供していたんだ。ポールがメロディーを書いて、僕はシャウトするようなロックンロールだけを書こうと思った時期もあったよ。でも僕の作った曲について後々考えてみると…たとえばIn My LifeとかThis Boyなんかの初期の作品は、我ながらその曲にピッタリあったメロディーを書いていたと思うよ。」


ジョンに比べて、ポールは幼い頃から音楽的な訓練を受けていた。
ポールの父親はジャズミュージシャンだった。
二人が出会った当初、ポールはギターにピアノ、そしてトランペットまで弾けたという。
ジョンは当時のことをこう述懐している。

「ポールが僕よりも才能があったという意味ではなくて、音楽の教育としては僕よりも受けていたわけだ。その当時、僕はハーモニカとギターのコードを2つくらい弾けた程度だった。それにギターの弦をバンジョーにみたいにチューニングしていたんだ(笑)なんでかって?バンジョーしか弾けない母親からギターを教わったから、僕のギターには弦が5本しかなかったんだ。ポールがちゃんとした弾き方を教えてくれたんだけど、あいつは左利きだから、レフティー用のコードを覚えて…家に帰って右利き用に戻しながら練習したんだ。だから今でもコードを逆に押さえて弾くことができるよ(笑)」



<引用元・参考文献『ジョンとヨーコ ラストインタビュー』デービッド・シェフ (著),石田泰子 (翻訳) 集英社>

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