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ドレミの歌〜ペギー葉山の情熱と“超訳”のチカラ

2017.09.17

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「当時、自分がブロードウェイにいることが“日本の代表”になったような錯覚をしちゃって(笑)帰国した時には“私しかサウンド・オブ・ミュージックの感動を知らない”っていう気持ちでした。そして“どうにかしてこの素晴らしい作品を日本でも広めたい”という一心でこの歌を日本語に訳しました。」(ペギー葉山)


ドはドーナツのド
レはレモンのレ
ミはみんなのミ
ファはファイトのファ
ソは青い空
ラはラッパのラ
シは幸せよ
さあ歌いましょう


この歌のオリジナル版「Do-Re-Mi」は、ブロードウェイミュージカル『サウンド・オブ・ミュージック』(初演は1959年)の劇中歌の一つとしてされた。
クレジットには作詞:オスカー・ハマースタイン2世、作曲:リチャード・ロジャースと記されている。
日本ではジャズ及び歌謡曲の歌手・ペギー葉山の手によって訳されたものが、音楽の教科書・授業において“必修ソング”として定着している。
彼女が唄った日本語版は1961年に「ドレミの歌」という日本語タイトルで発売され、翌1962年にはNHKの番組『みんなのうた』で紹介された。
当時、日本ではミュージカル版はまだほとんど知られていなかったが…1965年に映画版が公開されて以降は広く知られるようになったという。
この国民的愛唱歌とも言える「ドレミの歌」は、一体どんな経緯で日本語に訳されたのだろう?
訳詞をしたペギー葉山は学生の頃からジャズやミュージカルに憧れていた。
そして高校生の時、すでにアルバイトで米軍基地をまわりジャズを唄っていたという。
1959年(昭和34年)、彼女が唄った「南国土佐を後にして」が、200万枚を超える大ヒット曲となる。
しかし、ミュージカルに憧れていた彼女の気持ちは複雑だったという。
翌1960年に彼女はロサンゼルスで開催された日米修好百年祭に招かれた際、ニューヨークのブロードウェイまで足をのばした。

「帰国後には“南国土佐のペギー葉山”のイメージを変えたい。」

そこで出会ったのが、ミュージカル『サウンド・オブ・ミュージック』だった。
当時、ルント・フォンテーン劇場で上演されていたその作品に、彼女は一瞬で虜になった。
生前、彼女は当時のことをこんな風に振り返っている。

「あのきらびやかな大きなネオンとメアリー・マーティンの主演…私にとって何もかもがセンセーショナルな出来事でした。その劇中で初めて聴いたのが“ドレミの歌”でした。これは絶対に日本でもウケるだろう!と確信しました。気がついたら私も一緒になって唄っていたんです。観終わったあともブロードウェイの雑踏の中であのメロディーを口ずさんでいた記憶があります。懐かしい思い出です。」

ドはドーナツのド
レはレモンのレ


この日本語版の歌詞は、本家ミュージカルの内容とはいささかニュアンスの違うものであった。
現在の感覚でいう“超訳”と言った方が近いのかもしれない。
歌詞中にドーナツを登場させたことについて、後に彼女はこんなことを語っている。

「戦時中の集団疎開で食べ物が乏しい中、一番食べたかったものが母親の手作りドーナツだったんです。私の中で“ド”がつくものと言えば迷わずドーナツだったんです。」

彼女は当初、音名に対応する単語をすべて食べ物にしようとしていたという。
「レ」はレモン、「ミ」はミカン…と書き進めた次に「ファ」で始まる食べ物がファンタしか思いつかず、商品名(商標名)になるため断念したというエピソードがある。

どんなときでも
列を組んで
みんなたのしく
ファイトをもって
そらをあおいで
ランラララララ
しあわせのうた
さあ歌いましょう


「ドはドーナツのド(ミ)、レはレモンのレ(ファ)、ミはみんなのミ(ソ)、ファはファイトのファ(ラ)」と、歌詞が示す音名と実際の音譜と異なっているという指摘が近年ネット上で話題になったりもしたが…それによって彼の偉大な功績の価値が下がるわけではないだろう。

<参考文献『唱歌・童謡120の真実』竹内貴久雄(著)/ヤマハミュージックメディア>

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