青山学院女子高等部に在学中から米軍クラブで歌っていたペギー葉山は、60数年間にわたって同じ事務所に所属して活動してきた。
その間、信頼できるマネージャーとして彼女の音楽活動を支えていたのは、終戦直後から日本のジャズ界で事務方として働いていた太田耕二である。
戦前から活躍していたトップ・ジャズメンばかりを集めたオールスターバンド、スターダスターズを率いて日本ジャズ界のトップに君臨していた渡辺弘のもとで、1947(昭和22)年から太田は主として進駐軍を相手にマネージメントの仕事を務めていた。
当時はギャラの高さなどの諸条件のほかに、いかにたくさんの食べ物や飲み物を楽団のメンバーたちに確保するかでも、マネージメントの真価が問われたという。
それほど、食うや食わずの時代だったのだ。
そして5年後、スターダスターズの専属歌手になっていたペギー葉山とともに、太田は独立して事務所を構えることになった。
ある日リーダーの渡辺から「おまえはもう一人前だから自分一人でやってみろ」と言われ、「ああ、そうですか。それではやらせてもらいましょう」と、ことはすんなり運んでいきました。
ペギー葉山は独立してまもない1952年11月、キングレコードからレコード・デビューを果たす。
アメリカン・ポップスの「ドミノ」と「火の接吻」のカップリングで、もちろんSP盤だった。
それ以来キングレコード一筋で通したのも、この業界ではまれに見る出来事だ。
ジャズ歌手として順調に成長したペギー葉山は、1954年のNHK紅白歌合戦に初出場している。
当時はまだ出場歌手が男女15組だけの頃だった。
1954年に日刊スポーツ新聞社が主催する全日本ジャズ・ベストテンの選出でも、ペギー葉山は女性歌手部門で2年連続1位に選ばれた。
二月一日の投票開始以来、ジャズ楽界に反響をまき起し、投票は日を追って激増、連日熱戦を展開してファンの血をわきたたせたが廿八日をもって投票を締切り、以来地方からの郵送投票を整理中のところ、別表の如く最終発表を見るに至り、ここに一九五四年度のジャズ・オール・スターは決定した、なお投票総数は昨年度の十余万をはるかに上回る十八万余票に達したが、これは日本のジャズ楽界の飛躍的な発展と、ファンの眞剣な関心を示すものとして注目されるところである。
歌手(女)
①ペギー葉山 20365
②江利チエミ 20075
③雪村いづみ 18296
④ナンシー梅木 11315
⑤星野美代子 9763
(日刊スポーツ1954年3月5日)
女性部門ではペギー葉山が僅差で江利チエミを抜き、2年連続で1位になったと報じられていた。
江利チエミは昨年に続いて惜敗、三位には新人の雪村いづみが入っている。
こうしてジャズ歌手として認められた後、1959年には民謡を取り入れた歌謡曲の「南国土佐を後にして」が大ヒットし、そこからペギー葉山はジャンルを超えて常に第一線で活躍し続けた。
その安定した実力と息の長さは、日本の音楽シーンでも稀有な例と言えるだろう。
ペギー葉山が安定した活動を継続できた陰では、彼女が気持ちをリフレッシュして新しい音楽に出会えるようにと、マネージャーとしての明確な方針があった。
それは毎年必ず1ヶ月、リフレッシュのために外国へと送り出すというものである。
まだサンフランシスコ講和条約によって日本が独立国として認められていなかった時代は、個人の海外旅行には進駐軍から渡航許諾がおりなかった。
しかし太田は海外の団体から招待される形をとったり、外国のタレント招聘に関わらせるなどの手法で必ず、外国旅行を実現させてきた。
マスコミやファンを気にすることなく、ヨーロッパやアメリカでリラックスした時間を持ったペギー葉山は、素晴らしい舞台やコンサート、映画などに接することで、感性を磨いて心の栄養分を補給して帰国した。
1960年にはブロードウェイで観劇した『サウンド・オブ・ミュージック』のなかから、「ドレミの歌」を見つけてそれを自ら日本語に訳して日本に紹介した。
また1962年はブラジルで「ラ・ノビア」という、チリで生まれの楽曲に出会って、それを日本でカヴァーしてヒットさせた。
こうして結果的に世界の新しい音楽を、いち早く日本に紹介する役割も果たしていく。
それまでの歌謡曲にはなかった新鮮なタイプのオリジナル・ソング、「学生時代」をヒットさせたのは1964年のことだ。
ジャズ・スタンダードに限らず幅広いレパートリーで、日本にスタンダード・ソングを浸透させたという意味で、ペギー葉山は長く記憶されるべきシンガーである。
そんな歌手のアーティストの音楽活動を60数年間にわたって、一貫して支えていた優秀な裏方が存在したことも、どこかで語り継がれていってほしいと思わずにいられない。
ちなみにペギー葉山のリサイタルでもピアノを弾いていた秋満義孝は、1929年生まれで87歳の現役最年長ピアニストだが、やはり今でも太田がマネージメントを行っている。
1953年にクラリネットの鈴木章治とリズムエースの結成に参加した秋満は、上記の全日本ジャズ・ベストテンの選出で楽団で1位、ピアノ部門でも3位に選ばれている。
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