TAP the SONG

発売中止になったフォークルの「イムジン河」は国境を越え、時間を超えて日本人の歌になった

2014.11.28

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1967年のクリスマスにレコードが発売されたシングル盤の「帰って来たヨッパライ」が驚異的なヒットを記録し、京都のアマチュアだったザ・フォーク・クルセダーズは日本中から注目される存在になった。

フォークルがプロとして1年間だけ活動する道を選んだとき、次のシングルに決まったのは「イムジン河」だった。
後に加藤和彦とコンビを組んでフォークルやサディスティック・ミカ・バンドの作詞を担当する松山猛が、この歌に出会ったのは少年時代にさかのぼる。

京都に生まれ育った松山は中学生の時に、いがみ合いやけんか騒ぎが日常茶飯事だった朝鮮学校と日本の学校との間を仲良くできないものかと考えて、学校同士でサッカーの対抗試合を行うことを思いついた。
銀閣寺の側にある朝鮮中高級学校に試合を申し込みに行くと、どこかの教室から聞こえてきた物哀しいメロディの歌に、松山は魂を奪われる体験をする。

しばらく時間が経ってから、松山はずっと気になっていたその歌のことを、親しくなった朝鮮中学の友人に訊ねた。
すると友人のお姉さんから朝鮮語の歌詞と、その日本語訳を教えてもらうことが出来た。

その歌は朝鮮戦争の休戦協定によって臨津江(リムジン江)で南北に分断されて、南の故郷へ帰れないことを嘆く北に住む人たちの歌だった。
ただし、松山が教えられたのは1番の歌詞だけだった。

イムジン河水清く とうとうと流る  
水鳥自由に 群がり飛び交うよ
我が祖国 南の地 想いははるか
イムジン河水清く とうとうと流る


それから2年ほどの月日が流れて、松山は一緒に歌を作るようになっていた友人、フォークルの加藤に歌ってくれないかと相談した。
松山が聞き覚えてメロディを聴いて、それを歌いやすい曲に仕上げたのは加藤である。

そのとき1番だけでは短いので松山が大切にしていた気持ちをこめて、「南北がいつかひとつになれば」という2番と3番の歌詞を書き加えた。

北の大地から 南の空へ
飛び行く鳥よ 自由の使者よ
誰が祖国を 二つに分けてしまったの
誰が祖国を 分けてしまったの

イムジン河空遠く 虹よかかっておくれ
河よ想いを 伝えておくれ
ふるさとを いつまでも 忘れはしない
イムジン河水清く とうとうと流る


フォークルのメンバー全員とも話し合って、人間の自由や平等を歌で訴えよう、根強く残っている差別意識を変えるために、音楽で思いを伝えることになった。
初めて「イムジン河」がコンサートで歌われた時、会場がしばし静寂に包まれ、そのあとに嵐のような拍手が巻き起こったという。


「イムジン河」は1968年の2月からラジオで流れ始めたが、叙情性の高い平和へのメッセージ・ソングとして好評だった。
フォークルはプロモーションでテレビにも出演し、ヒット間違いなしとレコード店からも大量のオーダーが入ってきた。

ところが発売日の直前になって思ってもみなかった問題が起こった。
13万枚ものレコードがプレスされて全国のレコード店に出荷されて店頭に並ぶ2日前、在日本朝鮮人総連合会から発売元の東芝レコードに対して抗議文が手渡された。

北の国で歌い継がれてきた詠み人知らずの朝鮮民謡、フォークルも関係者たちの誰もがそう思っていた歌に、れっきとした作者がいると判明したのだ。
そして以下の四点を実行せよという要求が、東芝レコードおよび関係者につきつけられた。

(1)「イムジン河」が朝鮮民主主義人民共和国の歌曲「臨津江(イムジンガン)」であり、作詞・作曲者はとも存在しているにもかかわらず作者不明とされた上に、第二・第三節の詩の内容を勝手に変更した点について事実を認めた上で謝罪すること
(2)朝日・毎日・読売の各紙とニッポン放送の番組を通じて謝罪を公表すること
(3)日本語の歌詞をオリジナルに忠実に改訳すること
(4)原曲の作詞・作曲者名を明示すること


発売日までに改訳して再レコーディングすることは物理的に不可能で、東芝レコードが発売中止の判断が下したのは致し方ないことだった。

それ以来、ザ・フォーク・クルセダーズの「イムジン河」は、放送禁止の扱いを受けてメディアから完全に封印されてしまう。
1970年の安保条約改定を控えてベトナム反戦運動や学生運動が盛り上がりを見せていた状況下で、多くの放送局で放送を自粛する動きが広まり、放送禁止の歌であるかのような扱いになったからである。

その封印が解けたのは1995年、ソリッド・レコードから発売されたアルバム『ハレンチ+1』からだ。これは1967年の自主制作盤『ハレンチ』に、「イムジン河」がプラス1で入ったCDだ。

発売中止から34年の歳月を経た2002年3月21日には、初めてオリジナル音源のシングルCDが発売された。
その日は加藤の55回目の誕生日だった。

音楽家としての加藤は「イムジン河」について、毅然とした文章を残している。(注1)

この歌は松山が作詞したものでもなければ私が作曲したものでもない。
はるか北の大地から、不思議な運命で我々のもとに届いた。
しかし「イムジン河」に命を与えたのは、我々であると思う。
誰がこの曲の原曲を口ずさみたいであろうか。
誰がこの曲の原曲の歌詞に涙するであろうか。
不遜を承知でこんなことを言う。
「イムジン河」は「イムジン河」であって、「リムジンガン」ではないのである。


松山猛が「イムジン河」のことを書いた『少年Mのイムジン河』が原案となった映画、『パッチギ』が公開されて大ヒットしたのは2005年のことだ。全編にわたって「イムジン河」が流れたが、映画の音楽監督を務めていたのは加藤和彦だった。

こうして「イムジン河」は国境を越え、時間を超えて日本人の歌になったのである。


しかし日本でスタンダードになった現在も、朝鮮半島で臨津江を取り巻く状況に変化はない。
この歌に込められた松山と加藤の願いは、いまだに叶わないままになっている。



参考文献 松山猛著『少年Mのイムジン河』(木楽舎)
(注1)松山猛著『少年Mのイムジン河』(木楽舎)からの引用

ザ・フォーク・クルセダーズ「イムジン河」
(SPACE SHOWER MUSIC)

松山猛著『少年Mのイムジン河』
(木楽舎)

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