2002年に、ザ・フォーク・クルセダーズ(フォークル)の大ファンだったTHE ALFEEの坂崎幸之助を加えて、加藤和彦と北山修が新たなフォークルを結成したのは、アルバム『戦争と平和』を制作するためだった。
戦争と平和をテーマにしたこのアルバムで、加藤和彦は美輪明宏の「ヨイトマケの唄」を取り上げてうたっている。その意外性について、坂崎がインタビューに答えてこう語っていた。
―― 加藤さんらしくないといえば、らしくないですものね。
坂崎 びっくりしました、「ヨイトマケの唄」に関しては特に「へぇ~」と思いました。
―― 思い入れがあったんですかね?
坂崎 そんなかんじでしたね。
―― 生活感とは無縁のように見えていた加藤さんがこれを選んだ。
坂崎 逆を行ってますね。人の裏をかく加藤和彦。
洒落たスーツをさりげなく着こなす英国風のスタイリッシュな加藤和彦については、紳士で粋人だというのがパブリック・イメージだった。だから「ヨイトマケの唄」を取り上げたことを、当時は誰もが意外に思ったのだった。
しかし外、見の“お洒落”や“スマート”といったイメージに比べると、音楽家としての加藤和彦には表現者の自由を求める姿勢が貫かれていた。その主張は常に明快で、実は硬派なところがあった。
そして、ひとりの生活者としては、戦争反対の立場を最後まで崩さなかった。
フランスの詩人で小説家、ジャズ批評家、トランぺッター、歌手などの肩書きを持つ表現者、ボリス・ヴィアンが書いた「脱走兵(原題:Le Deserteur)」は、徴兵カードをもらった若者が戦うことを拒否する反戦歌だ。
これを「大統領殿」という邦題で訳したのは、関西フォークの先駆者だった高石ともやだが、加藤和彦はアマチュアだった頃からレパートリーにして、晩年までずっとこれを歌い継いだのだった。
最初にフォークルが1968年に発表したライブ・アルバム『当世今様民謡温習会』に収録された際は、「大統領様」というタイトルだったが、2002年には歌詞と同じ「大統領殿」になっている。
この歌でボリス・ヴィアンが正面から抗議をつきつけた相手は、軍人出身で権勢を誇っていたド・ゴール大統領である。
フランスは1954年の夏にベトナムとの間で起きていたインドシナ戦争で敗北し、アメリカにインドシナの肩代わりを求めて撤収した。
しかしその年の11月、フランス領アルジェリアで独立闘争が激化して再び戦争が勃発したことで、「脱走兵(Le Deserteur)」は放送禁止になった。
1960年代にアメリカのフォーク・シンガーたちがベトナム戦争に対しての反戦を訴える10年前、フランスで絶大なる力を誇示していたド・ゴール大統領に向かって、ボリス・ヴィアンが歌で反戦の意思表示を申し立てていたのだ。
ボリス・ヴィアンはアメリカのジャズをフランスに紹介したことでも有名で、レコードに付いている解説を数多く書いた。
また、ルイ・マル監督の傑作といわれる映画『死刑台のエレベーター』では、音楽をマイルス・デイヴィスに依頼したプロデューサーでもあった。
そして「俺は40歳までは生きられないだろう」という予言通り、40歳の誕生日を迎える直前の1959年6月、自分が原作を書いたハードボイルドを映画化した『墓に唾をかけろ』の試写会の席で、心臓発作で倒れて亡くなった。
心臓病のため医者に禁じられていたがトランペットを吹き続け、小説でも歌でも物議をかもす作品を書きつづけ、生き急ぐように多彩な才能を発揮して、ボリス・ヴィアンは時代を駆け抜けたのだった。
加藤和彦の楽器体験はトランペットから始まった。中学生になってすぐにジャズに興味を持つと、ジャズ・ファンだった両親が買い与えてくれたのである。
ところが「トランペットを吹くと胸が悪くなるとか」の妙な理由で急に取り上げられてしまい、代わりにギターが与えられたという。
ボリス・ヴィアンが亡くなったのが6月だったから、ジャズ・ファンだった両親は、それ知って不安になったのではないかと考えられる。
その頃から加藤和彦はハヤカワ・ミステリ文庫が大好きで、数百冊もの海外のミステリ小説を買っては、本好きの母親と一緒に読んでいたという。
フランスの若者たちの間で強力な支持を得たボリス・ヴィアンの小説、「日々の泡」を母親が読んでいた可能性は高い。
そこから加藤和彦もボリス・ヴィアンを知ったと考えられる。2015年10月12日に原宿クエストホールで開かれた『きたやまおさむ トーク&ミュージック 加藤和彦さんの「想い出」~音楽と人となり~』でも、北山修が加藤和彦はボリス・ヴィアンを強く意識していたと語っていた。
期間限定で2002年に新結成を遂げたザ・フォーク・クルセダーズは、その年の11月17日にNHKホールで「新結成記念・解散音楽會」を開いた。その一度限りのコンサートで解散したのだが、そこでも加藤和彦はソロで「大統領殿」をうたっている。
そのコンサートでは「大統領殿」からインスパイアされた日本の反戦歌、アマチュア時代から歌ってきた「戦争は知らない」も取り上げられていた。
「戦争は知らない」を書いた寺山修司は歌人にして詩人、劇作家、脚本家、演出家、映画監督など、さまざまな肩書きを持っていたが、映像的なことばをつぐむところもふくめて、まさにボリス・ヴィアンの生き方を受け継いだような表現者であった。
寺山修司もまた47歳で夭逝したが、絶筆となったエッセイ「墓場まで何マイル?」はこんな文章だった。
私は肝硬変で死ぬだろう。
そのことだけは、はっきりしている。
だが、だからと言って墓は建てて欲しくない。
私の墓は、私のことばであれば、充分。
加藤和彦は自分では作詞を手がけなかったが、コンビを組んだ松山猛や北山修、安井かずみを筆頭に、ボリス・ヴィアンから寺山修司まで、ことばの使い手を見出す能力は人並み外れて鋭かったことが良くわかる。
「戦争と平和」
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