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「今まで聴いた中で一番くだらない歌詞だ」と言われた歌を全米1位の大ヒット曲にしたレス・ポールのマジック

2023.08.13

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「ハウ・ハイ・ザ・ムーン(How High the Moon)」は、1940年にミュージカル『Two For The Show』のために書かれた曲だったが、レス・ポールは自分の作る最新のギター・サウンドと、メリーの素直で温かみのあるヴォーカルの組み合わせで、世界をアッと言わせる事ができると確信していた。

しかしキャピトル・レコードのA&Rマンで、発売するレコードを決める権限を持っていたジム・コンクリングは、歌としては凡庸なラブ・ソングに過ぎないとの判断だった。

コード進行がユニークなこの曲は”the bop hymn (バップの讃美歌)” や、”the national anthem of the modern jazz (モダン・ジャズの国歌)” とも言われるほど有名で、ジャズメンがバップで演奏してこそ生きる曲だと思われていたのだ。

それまでもベニー・グッドマンが出したボーカル入りの「ハウ・ハイ・ザ・ムーン」が、全米チャートの6位のヒットになったことがあった。
1948年にはキャピトルが出したスタン・ケントン楽団のヴァージョンが20位まで上昇した。

「あれは、ミュージシャンのためにある曲なんだ。それに、今まで聴いた中で一番くだらない歌詞だ。いいかい、あれはダメだ」


エラ・フィッツジェラルドのヴァージョンも、途中からは全編がスキャットでアドリブになる。
それらを聴けばコンクリングの言い分もよく分かる。


しかしレス・ポールはあきらめず、次のシングルにしてくれと言い張っていた。

コンクリングが拒絶の姿勢を一転させたのは、たとえ売れなかったとしても自分が責任を問われないことになったからだ。
ライバルのコロムビアに引きぬかれて、4月にキャピトルを辞めることになったのである。

レスは、相変わらず「ハウ・ハイ・ザ・ムーン」を出すようにうるさく言ってきた。
私も、遂に根負けしてしまったんだよ。
私がキャピトルで手掛けた、最後のレコードの一枚になったんだ。
だが、その時私は「今でも別の曲にすべきだと思っているよ。売れるように願うだけだ」とレスに言ったよ。


3月に発売になった「ハウ・ハイ・ザ・ムーン」は、レス・ポールが確信した通りにすぐに大ヒットした。
そして4月には全米1位の座につき、レス・ポールのキャリアに勲章を飾ることになった。

さらには前作の「モッキン・バード・ヒル」も2位に再上昇して、1位と2位を独占する快挙を達成したのである。
これには普及し始めていたテレビの影響も大きかった。

レス・ポールの超人的なギタープレイとメリーの歌う姿に、視聴者は驚かされつつも楽しんだ。


それから12年後にビートルズが登場するまで、「ハウ・ハイ・ザ・ムーン」はキャピトルでは最大の売上を記録したレコードになった。

テレビドラマ『マイアミ・バイス』が有名な音楽家のヤン・ハマー、その頃はチェコスロバキアの小学生だったが、「とても地球の音とは思えなかった」と語っている。

ローリング・ストーンズのビル・ワイマンは自伝にこう記している。

あの曲には、ひしひしと伝わってくる熱気があった。ポピュラー音楽にも、ただのラブソング以上のものがあるということ、また、粋なインストルメンタルを創造することが可能だということの証明だった。


「ハウ・ハイ・ザ・ムーン」に続い大ヒットしたのが「世界は日の出を待っている(The World Is Waiting for the Sunrise)」で、こちらは1951年の夏の終わりに発売されて全米2位までいった。

この曲もまた、ベニー・グッドマンをはじめデューク・エリントンやジャンゴ・ラインハルトなど、ジャズのアーティストたちがこぞってレパートリーにしていた。

だが、まだシングル・ヒットにはなっていなかったので、レス・ポールは自分で改良したテープレコーダーと、独自のレコーディング・システムによる多重録音で、「未来的」なギター・サウンドを作り上げた。

またしても誰もが知っているスタンダード・ソングを、メリーと二人で最新のヒット曲に仕上げたのだった。
そうしたレス・ポールならでのマジックは、直感的な思いつきやアイデアを徹底的に追求してやまない探究心と、世界をアッと言わせたいという闘志の賜物だった。







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