1960年代の中頃、アイク&ティナ・ターナー・レビューはアメリカにおいて国民的人気を獲得していた。
ティナが27歳を迎えた1966年、彼らはフィル・スペクターのフィリーズレコードと契約を交わしシングル「River Deep – Mountain High」をレコーティングする。
当時破格と言われた金額(25,000ドル)が提示されたその契約には、たった一つだけ条件がつけられた。
「アイクはスタジオに入らないこと。」
つまりフィルが出した条件は、アイクは録音に参加せずティナの単独レコーディングを意味していた。
「初めてフィル・スペクターにあったのは公演後の楽屋だったわ。私は彼が何者なのかさえ知らなかった。すごく小さくて、とても顔色が青くて不健康そうに見えたわ。アイクがレコーディングに立ち会わない条件を聞いて私は初めて個人を認めてもらった気分になったの。その点では彼を気に入ったわ。」
完成したシングルは、発売当初アメリカではビルボードホット100の88位までしか上がらずフィルを失望させた。
しかし、数週間後にイギリスで3位まで上昇する大ヒットとなり、これがきっかけとなって彼らはローリング・ストーンズの1966年と1969年のアメリカツアーのサポートアクトに抜擢され、ティナとアイクは国際的スターへの足がかりをつかむこととなったのだ。
当時、まさに一世を風靡していたビートルズのジョージ・ハリスンは、同作をこんな言葉で評した。
「最初から最後まで完璧な楽曲。改善の余地は見つけられない。」
当時、イギリスのロックバンドの新しい系統はアメリカのブラックミュージックに魅せられていた。
ブルースやR&Bに相当する彼ら自身の音楽ルーツを持っていなかったので、イギリスのバンドと観客はアメリカのシーンに傾倒していたのだ。
ビートルズ、マンフレッド・マン、ハーマンズ・ハーミッツなどのポップス傾向のグループは、黒人女性グループのヒット曲をカヴァーして熱心に演奏していた。
ビートルズのライバル的存在でもあったローリング・ストーンズもブルースやR&Bへのリスペクトの流れの中で、黒人女性ヴォーカルが持つパワーとしなやかさに注目していた。
当時、イギリスツアーの準備を進めていたストーンズは、アイク&ティナ・ターナー・レビューを呼ぶことを計画した。
ビル・ワインマンは当時のことを鮮明に憶えているという。
「俺たちは彼らが素晴らしくショーアップされたグループだってことを知っていた。いつも俺たちが人を誉める点は、レコードと同じように本当に魅力的なライブをやれるかどうかなんだ。レコードと違って、いざステージを観るとチンケな連中っているだろ?アイク&ティナは完璧だった。だから俺たちは彼らを呼んだのさ。」
1966年の9月23日から10月9日までの間の12回公演。
アイク&ティナ・ターナー・レビューは人気絶頂のローリング・ストーンズのツアーのオープニングアクトを務めた。
ミック・ジャガーは、そのツアーに関してこんな言葉を残している。
「俺たちはアイクとティナが来てから一段とハードなプレイをした。わかるだろ?彼らは本当に凄く観客を興奮させるんだ。だから彼らを呼んだのさ。前座にトンマなバンドはいらない。自分たちを最高にしてくれるようなプレイをする奴じゃなきゃだめだ。間違いなくアイク&ティナは、その役目をやってのけたんだ。ティナの声は凄くパワフルで独特だった。」
ストーンズとのイギリスツアーは、彼女にとってあらゆる事の始まりだった。
新しい人生、新しいライフスタイルを知る始まりだった。
そして、それはアイク・ターナーからの逃避の始まりでもあった。
「アイクに愛を感じられなくなったのはその頃よ。私たちのベッドに他の誰も連れ込まないで欲しい…私は彼にそんな事まで言わないといけなくなっていた。ロンドンである夜喧嘩した時には、彼が私を押さえつけてガンガン殴ってきたから、翌日には顔中が腫れ上がってしまったの。」
その頃、彼女はロンドンでカード占い師のヴィーキーという女性と友達になる。
アイクが滞在先のホテルから外出した時間を見計らって、彼女はヴィッキーのもとを訪ねた。
その時、占いで告げられた言葉がその後の彼らの運命をすべて言い当てていたという。
「ティナ、あなたは大スターの仲間入りをするでしょう。しかしあなたのパートナーは木から葉が落ちるように消えてしまいます。」
<引用元・参考文献『ティナ・ターナー、愛は傷だらけ』ティナ・ターナー(著)大河原正(翻訳)/講談社>
【佐々木モトアキ プロフィール】
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【TAP the POP佐々木モトアキ執筆記事】
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