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ルイ・アームストロングが美空ひばりに残した手紙とレコード

2018.05.11

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美空ひばりの家には、大切に保存されていた古いジャズのLPレコードがあった。
そこにはジャズの王様と言われたアーティスト、ルイ・アームストロング(愛称・サッチモ)のサインが残されていた。

敬愛する日本の歌の女王、ひばりへ

神のめぐみと歌の心がいつも、あなたの上にありますように

ルイ・アームストロング


サッチモが生涯最大のシングル・ヒットを経験したのは、すでに60代になっていた1964年のことだった。
ブロードウェイ・ミュージカル「ハロー・ドーリー!(Hello, Dolly!)」をレコーディングすると、ヒットチャートの1位に躍り出たのである。

その年のアメリカでは2月から4月までの3ヶ月間、全米チャートがビートルズによって独占されるという前代未聞の状態にあった。
1964年2月1日に「抱きしめたい」が全米1位になってからのビートルズ人気は、空前の勢いがあって4月4日には1位の「キャント・バイ・ミー・ラヴ」以下、上位5曲を独占するという旋風が吹き荒れる。

そうした状況の中で誰がビートルズを抜くのかが注目されていた5月9日、渋い声で歌とトランペットを聴かせるサッチモの「ハロー・ドーリー!」が1位になった。

それはイギリスからやって来たビートルズのロックに対して、ジャズ界の大物からの反撃とも受けとられる出来事になった。



そうした流れのなかで、サッチモは60代半ばにして世界をまわるツアーに出たのである。
1953年の初来日から3回目となる来日公演は、その年の12月に行われている。

美空ひばりにルイ・アームストロングの存在を教えたのは、反骨のルポライターとして知られるジャーナリストの竹中労である。

竹中はひばりのジャズのLPを聴いているときに、「もし彼女に黒人霊歌と歌わせたら」と思ったのが発端だった。
そこでまずはマヘリア・ジャクソンのレコードを送っておいて、しばらくしてから美空ひばりのリサイタルを聴きに行った。

日本を代表するビッグバンドの原信夫とシャープス・アンド・フラッツを従えて、ジャズを歌ったそのときの感動を、竹中はこのように記している。

一二月一二日、福岡音協のリサイタルで歌うひばりの「ダニーボーイ」をきいて、私はあっと感嘆した。あまりにも見事に、フィーリングを自分のものにしていたからである。しかも彼女は、日本語でうたっていた。
それから、さっさとジャズのレコードと美空ひばりにつぎこんだ。まさしく、つぎこんだのである。週刊誌や月刊誌にひばりの記事を書いた原稿料は、そっくりレコードに化けてしまった。
「正気のサタじゃないね」と周囲に笑われながら、ありとあらゆるひばりのレコードを買い込み、ジャズと聴きあわせて曲を選択した。

レイ・チャールズ、カーメン・マックレー、サラ・ボーン、ナンシー・ウィルソン、ニーナ・シモン、エラ・フィッツジェラルド、ナット・キング・コール、そしてサッチモ・ルイ・アームストロング…。

ひばりは、おそらく私のことを「へんなジャーナリスト」だと思ったにちがいない。突如としてレコード持ってあらわれては、「歌いなさい、ジャズを歌いなさい」と言って帰るのである。


1964年12月17日、竹中のもとに美空ひばり本人から電話がかかってきて、ルイ・アームストロングに会いたいと頼んできた。
来日中だったサッチモを横浜にある自分のクラブへ招待したいのだがどうだろうかという話で、できればクリスマス・イブを共にしたいと熱心だった。

竹中はサッチモが1963年に来日した時、プログラムに「ズールーの王様」という短い文章を寄稿したことがあった。
そしてプロモーターの協同企画に大橋という友人がいたので、楽屋にまで連れて行ってもらったのだが、そこではこんな挨拶を交わしていた。

大橋が、「あなたに最高の評価を与えた、日本の音楽評論家です」といいかげんな紹介をすると、サッチモは立ち上がって私にうやうやしく一礼し、握手を求めた。短い会話の中で「イエス・サー」を連発されたのには、すっかり恐縮してしまった。大橋いわく、「アメリカじゃ、評論家というと最大級の尊敬を受けるんだ」


ただそれだけの関係であったが、竹中はサッチモの宿舎であるヒルトン・ホテルに出かけていった。
すると運がいいことにロビーに降りてきたサッチモと出くわしたのだが、なんと、「あなたの文章は非常によかった」と言われたのである。

そのために英会話が苦手な竹中は用意してきた英文の手紙を、堂々と彼に手わたすことができた。
それを読んだサッチモは一緒に美空ひばりのレコードを受け取り、レコードを聴いたうえで翌日には返事をすると答えて別れた。

翌日、サッチモに会うと上機嫌で、竹中にこんな提案をしてきた。

「ミスひばりの店には行けない。そのかわり二四日の晩に私が招待しよう。男性が女性を招待するのが礼儀だからね。一緒に一九六四年のイブを過ごそうと、彼女に伝えてくれないか。こういう絶好の機会にワイフが一緒なのは残念だが」


片目をつぶって見せたサッチモはそのとき、「ヒバリは太っているだろう」と両手を横に広げた。
竹中が「ひばりは身長157センチ、体重40キロあるかなしだ」というと、サッチモは大げさに驚いてみせたという。

しかし、ジャズの王様と美空ひばりとの出会いは、結局のところ実現することはなかった。
サッチモからの提案があった直後、弟が拳銃の不法所持で逮捕されてしまったのだ。

そのことによって美空ひばりはその年のクリスマスイブを、弟が経営していた横浜のクラブ「おしどり」で、客のために歌わなくてはならなくなったからだった。

サッチモは「ハロー・ドーリー!」のLPレコードに手紙を添えて、日本を去っていったのである。

敬愛する日本の歌の女王・ひばり。

私はあなたが、貧しい下町の出身だということを人づてに聞きました。そして、まだ一〇歳にならない少女の時から、生きるために歌をうたってきたということも聞きました。それは、大変私自身の体験と似通っているように思います。音楽は、そういう場所と人生から生まれるもののようです。
会うことのできなかったことを、たいへん残念に思います。もし私が、もう一度日本を訪れたことがあったらぜひ訪ねて来てください。その時、良い食事と良い音楽を共にしましょう。
神のめぐみと歌の心がいつも、あなたの上にありますように。

ルイ・アームストロング






〈参考文献〉、竹中労著「完本 美空ひばり」(ちくま文庫)、文中の引用はいずれも同書によるものです。

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