美空ひばりが女性歌手として初となる歌舞伎座での公演に挑んだのは1952年、14歳のときだった。
戦後間もない1949年7月に「河童ブギウギ」でレコード・デビューを果たしたひばりは、同年9月に「悲しき口笛」を、翌年には「東京キッド」など次々とヒット曲を放ち、瞬く間に新たな時代を象徴するスターとなった。
松竹製作の映画にも数多く出演していたひばりが、松竹の所有する歌舞伎座で公演するという企画が上がったのは1952年初頭のことだ。
戦時中に空襲で全焼してしまった歌舞伎座は1951年になってようやく復興が終わり、公演を再開したばかりだった。
伝統ある格式高い歌舞伎座が、まだ14歳の少女に使わせてもらえるはずもないだろうと思いながらも打診してみると、社長の大谷竹次郎、そして昭和を代表する歌舞伎役者の1人、初代中村吉右衛門からお墨付きをもらうことができ、美空ひばりの歌舞伎座公演は晴れて実現することになる。
とは言っても中にはやはり快く思わない人もいた。男性だけが上がることのできる神聖な歌舞伎の舞台に女性が上がるなど言語道断というわけだ。風当たりは強かったが、それ以上に世間の注目と期待も大きかった。
1952年4月28日、サンフランシスコ平和条約が発効されたこの日、第1回歌舞伎座公演『美空ひばりの會』が初日を迎えた。
演目は3部に分かれており、第1部はミュージカル『マッチ売りの少女』、第2部の『橋弁慶』では牛若役をひばりが、弁慶役を歌舞伎役者の市川段四郎が演じる。
第3部の『歌の花束』は美空ひばりのリサイタルで、喜劇人の古川ロッパと宝塚出身の水の江滝子による進行のもと、次々とヒット曲を披露した。
このとき古川ロッパは14歳の少女に只ならぬ将来性を感じとったという。
ひばりの何気なく歌っているような姿、つくづくこれは大物だわいと感心する。・・・こんな人気のある者は一体今迄の日本に在ったろうか。雲右衛門、沢正、林長二郎などを頭に浮かべてみるが、これほど強烈なのはないようだ。
歌舞伎座公演は大盛況の中で幕を閉じ、翌29日の公演も成功させ、美空ひばりはわずか14歳にして偉業を成し遂げるのだった。
このときはヒット曲だけでなく新曲もいくつか披露されたのだが、その中の1曲がのちに代表曲の1つとなる「お祭りマンボ」だ。
作詞作曲を手がけたのは服部良一の内弟子、原六朗。マンボはキューバ生まれのルンバとジャズを合わせたようなラテン音楽で、1940年代後半からダンス音楽として世界中に広まりつつあった。
原はそのマンボと祭りの音頭を掛け合わせるというアイデアを新しい音楽を生み出し、そこに美空ひばりが活き活きとした歌で躍動感を与える。
日本でのマンボ・ブームは1955年頃に全盛を迎えるが、1952年に発表された「お祭りマンボ」はその先駆けともいえ、火付け役となるのだった。
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