美空ひばりの27回忌を迎える前の日、東京・港区にある日本コロムビアのスタジオで、マスターテープから起こしたばかりの状態にあるハイレゾ音源で、名曲の数々を聴かせていただく機会に恵まれた。
これまで経験したことのない最高レベルの状態で聴いた歌声の数々のなかでも、とりわけ素晴らしかったのが1976年に録音された「さくらの唄」だった。
当時はアナログ・テープを使ったレコーディングの技術が完成の域に達していたので、24bit/96khzのハイレゾ音源はマスターテープに録音されていた音を、ほぼ完全に再現していたのだ。
ハイレゾでよみがえった美空ひばりの「さくらの唄」が誕生して後に、レコーディングに至るまでのエピソードをお届けしたい。
作詞家のなかにし礼は1970年代に入ってまもなく、実の兄の莫大な借金をまるごと抱え込んで失意の底に沈んでいた。
逃げ出すことができない現実のあわれな自分の身代わりに、もう一人の自分をあの世に送り出すための唄、いわば遺言として書いたのが「さくらの唄」だという。
曲を頼まれた三木たかしは作った作品に惚れこんで、それを自らが歌ってレコードにして発表した。そこまでするほどその歌に対して、強い思い入れがあったのかもしれない。だがあまりにも感傷的な歌い方だったせいか、レコードは全くといっていいほど売れなかったという。
それからだいぶ月日が流れてそんな歌があったことを誰もが忘れた頃になって、その歌を耳にしたのがTBSの演出家だった久世光彦である。
「なぜか聴くたびに泣けてしまう」とこの歌に惚れ込んだ久世は、世の中に受け入れられずに眠っていた歌を何とかして蘇らせようと考えた。
そして美空ひばりに歌ってもらおうと思いついた。そのためには歌を聴かせる場が必要なので、歌と同じタイトルの連続ドラマ『さくらの唄』を企画する。
生きている日々の中で、顔も上げられないくらい恥ずかしい思いを幾つも重ね、重ね重ねた恥の数がとっくに年齢(とし)の数を越え、それでもまだ懲りないで、という厄介な奴が伏し目がちに歌ってくれてはじめて「さくらの唄」はほんのりと匂うのである。
ちょっと大袈裟に言えば、この歌は地獄を覗いて、そこから命からがら、這うように逃げかえった卑怯未練の歌なのである。
ドラマのヒットメーカーだった久世は山田太一の脚本で、番組の企画を通してから彼女の所属するコロムビアに交渉に行ってタイアップを提案した。ところが全くヒットしなかった曲のカヴァーなどできないと、予想に反して断られてしまう。
あきらめきれない久世は「せめて聴いてもらうだけでも……」と、名古屋で長期公演中だった美空ひばり本人を訪ねることにした。東京から持参した大型ラジカセでテープをかけて歌を聴いてもらったのは、終演後のひっそりと静まった楽屋だった。
そこにテープがまわって、三木たかしの咽ぶような歌が流れた。
「もう一度聴かせてください」と言った美空ひばりの声は、すっかりつぶれて老婆のようにかすれた声だった。久世はテープを頭に戻してもう一度、プレイボタンを押した。
久世は三木たかしの歌声を聴きながら、「ちょっと泣きすぎだ、もっと微(わ)笑(ら)いながら人に話しかけるように歌えばよかったのに」と思ったという。すると久世が思った通りの歌い方で、「さくらの唄」が何処かから聞こえてきたという。
びっくりして見ると、美空ひばりが目をつむって歌っていた。
だるそうに楽屋の柱に寄りかかり、疲れた横顔に、疲れた笑いを浮かべて、歌っていた。
美空ひばりはポロポロと涙をこぼして歌っていた。
そしてテープが終わると、私に向かって座り直して、『歌わせていただきます』と嗄(しゃが)れた声で言って、天女のようにきれいに微(わ)笑(ら)った。
TBS系水曜ドラマ『さくらの唄』(1976年5月-11月)に出演したのは若山富三郎、桃井かおり、田村正和、美輪明宏、加藤治子、由利徹である。「さくらの唄」はのエンディング・テーマとなり、半年間、毎週テレビから流れたのだった。しかしどういうわけかレコードは、まったくヒットしなかった。
久世は著書の『マイ・ラスト・ソング』でこう締めくくっていた。
私は、美空ひばりの絶唱だったといまでも思っている。
どう聴いても文句のつけようのない、文字通りの絶唱だった。
言い訳めくが、あまり良すぎても、レコードというものは売れないのである。
けれど、いつ、どんなときに聴いても泣いてしまうという歌は、そうあるものではない。
いまからでも遅くはない。
一度でいいから聴いてみて欲しい。
少なくとも私一人は、あの歌が美空ひばりの〈ラスト・ソング〉だと信じているのだから――。
(注)本コラムは2015年6月23日に公開されました。
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