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エルヴィス・プレスリー27歳~決定的なものが失われたことによってなしくずしに始まった雲上人伝説

2018.07.07

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エルヴィス・プレスリーは陸軍に徴兵された1958年3月24日から2年間、実質的に音楽活動が出来ない期間を過ごしている。
そして除隊した後は以前の生活に戻ることが出来たのだったが、その間に実は決定的なものが失われてしまった。
最愛の母のグラディスが病に倒れて、1958年8月14日に亡くなったのである。
まだ46歳、あまりにも早すぎる死だった。

夫のヴァーノンと3人、ときには息子と2人だけで貧しい暮らしをしていたグラディスが、幼いエルヴィスにいつも話してきかせていたのは、出産時に亡くなった双子の兄がいたことと、「双子の一人が死ぬと、残った子は二人分の力を得る」という言い伝えだ。

エルヴィスは物心がつくかつかないかの3歳時に、「今に僕が立派な家を買ってあげるよ。おかずを買うお金も僕が稼ぐよ。それにキャデラックは2台買うんだ。一台はママとパパのもので、もう一台は僕のだよ」という言葉を、母親に向かって発したという。

10数年後にその約束を果たしたエルヴィスは故郷に家を買って、ピンクのキャデラックをプレゼントした。
有名になってからでも母親の意見にだけは、エルヴィスはいつでも耳を傾けた。
その頃からエルヴィスは自分がロボットのようだと感じ始めていたのだ。

おふくろとはとても親密で、母親という以上の存在だった。ぼくは、昼も夜も、悩みがあれば何時間でも2人で話し合った。


だがグラディスのほうは子離れができない母親で、彼女の精神と肉体の病の根本にあったのは、エルヴィスの途方もない成功による不安だった。
同じように貧しい暮らしの親戚がたくさんいて面倒を見ていたが、たびたびおかねを借りに来るようになり、貸してもらえないとそれを逆恨みする有様だった。
古くからの知人がこんな証言をしている。

ミセス・プレスリーは、白豆、とうもろこし、それにバターミルクが好きでした。卵は六個、バターは一本、という買い物をする人で、おかねがたくさんある生活には、ついに最後までなじめませんでした。グレイスランドに移ってからも、シャンプーが25セントのものでしたし、歯みがきはいちばん小さなチューブのを買っていました。


それが彼女の生き方だったのだが、世間はそうは見てくれないのだ。
マネージャーのパーカー大佐からは大スターの母親にふさわしく見えるようにと、外出時の服装にまでいちいちチェックが入った。

エルヴィスに釣り合った母親になろうと努力したことで、グラディスの精神はかえって不安定になっていったという。

エルビスのためにも、外観を良くしよう、と考えていて、もっと痩せて魅力的になりたいと思っていたようなのですが、体質的にやせることができず、太ったままで、さらに肉がついてきました。
だから、やせる薬を飲み始めたのです。習慣になってしまったみたいですね。それからお酒にきりかえました。
エルビスに誇りに思ってもらえるようになろう、ということだけを彼女は考えていました。エルビスが自慢してくれるような母になろうと、思っていたのです。エルビスはもちろん母を誇りにしていましたけれど、グラディスはやせる薬を飲み続け、お酒もやめられなくて‥‥‥ついに心臓がまいってしまったのですね。


特に兵役につくことになってドイツに赴任することが決まると、自分の「ベイビーが殺されてしまう」と感じて、精神不安からアンフェタミンを何錠もビールで流し込むようになった。
すっかり肝臓がやられてしまったせいで、黄疸の症状が進んで入院したところ、すでにもう手遅れだった。

8月に葬式を行った後もエルヴィスは母のナイトガウンを抱えて、片時も離そうとはしなかった。
いつでも泣いていて、寝るときも椅子に座ってガウンとともに眠った。

母の死から4週間後の9月、エルヴィスは赴任先のドイツへ一人の兵士として旅立った。
それらの日々もふくめて、常に行動をともにしていた「メンフィスマフィア」と呼ばれる側近の一人、ラマー・ファイクが後にこんな証言をしている。

エルヴィス・プレスリーの死を記録する際に覚えておかなければならないのは、”傾き”はグラディスが死んだ時に始まったということだ。
それは彼にとって最も強烈な体験だったんだ。
彼はもう二度と同じ人間にはなり得なかった。


ドイツに赴任したエルヴィスは基地の外にある家で暮らし、父親やメンフィスマフィアの幼なじみたちとも一緒だった。
しかし、外向けの音楽活動などはまったく行わず、普通に軍務をこなしていた。
その間に未発表だった「恋の大穴(A Big Hunk O’ Love)」が発売になると、1959年8月に全米1位のヒットを記録したので、不在でも人気の衰えはまったく見られなかった。

そして1960年3月、エルヴィスは79名のGIたちやその家族とともに猛吹雪の中で、ドイツからニュージャージー州の空軍基地に到着すると、陸軍基地に移動して兵役から解放された。


除隊後の初仕事はナッシュビルで3月20日に行われた徹夜のレコーディングで、その直後に発売された「本命はお前だ!(Stuck On You)」は4月から5月にかけて、全米1位のヒットになった。

その直後にはテレビの特別番組『フランク・シナトラ・タイメックス・ショー』に出演し、明らかに大人になったという印象を世間に与えた。

ふたたび4月3日にナッシュビルで行ったレコーディング・セッションでは、アルバム『ELVIS IS BACK』の12曲が一気にレコーディングされている。
さらには7月に「イッツ・ナウ・オア・ネヴァー」が発売になり、当時としてはエルヴィスのデビュー以来最大の売上を記録することになった。

その後も11月に「今夜はひとりかい?( Are You Lonesome Tonight)」、翌年3月には「サレンダー(Surrender )」と3枚のシングルがすべて全米1位になったので、2年間の空白によるブランクなど全く感じさせない完全復帰に見えた。


しかしながらその内実を仔細に調べていくと、入隊前と除隊後では大きく変わったところがあった。
メンフィスのローカル・スターだった頃から入隊するまでのエルヴィスは、いつも少年少女や若者による熱狂に包まれていていたし、本人にもやんちゃで奔放な面があった。
そのために大人たちからは敵視され続けたし、理不尽ともいえる非難にさらされることも多かった。

ところが除隊後はロックンロールのカリスマだったエルヴィスではなく、ソフトでものわかりのいい好青年へとごく自然な感じで、イメージチェンジしていったのである。
大ヒットした「イッツ・ナウ・オア・ネヴァー」はイタリア民謡の「オー・ソレ・ミオ」が原曲だし、「サレンダー」も同じようにカンツォーネの「帰れソレントへ」を改作カヴァーしたものだった。

そうした変化にともなって楽曲もまた、野卑でエネルギッシュなブルースや、ビートを効かせた刺激的なR&Bやロックンロールではなくなった。
メロディアスな楽曲を得意とするポップス・シンガーの面が打ち出されて、しかもエルヴィスの歌声がなかったらさほど魅力もない作品が増えた。
「今夜はひとりかい?」もやはり1926年に発表された懐メロ的な名曲で、エルヴィスには似合わないイージーリスニング局でも、盛んにオンエアされるようになった。

無名の頃はエルヴィスが自分の耳で判断して、知られざるブルースやR&Bを発見していった。
そこに仲間たちと新しい音楽の要素を加えることで、エルヴィスならでは強烈な主張と魅力を加えて、新しい時代が求める歌や音楽を自然につくり出していった。

だが、除隊後はそれまでよりも安定した、名曲タイプが選ばれる傾向になった。
これはエルヴィスに聴かせる前の段階で、あらかじめパーカー大佐たちがデモテープを選ぶようになったことに原因があった。

彼らはいい作品を選ぶ基準も耳も持っていなかったし、新しい分野に挑む気もまったくなかった。
自分たちの利益が増えるようにと関連会社や、仲間内からの楽曲を優先していたのだ。
そのせいで「監獄ロック」や「ハウンド・ドッグ」を提供した最強コンビのソングライターたち、リーバー&ストーラーが作品を提供しなくなった。

というのもパーカー大佐たちが彼らの印税の一部を必ず、自分たちの出版社に譲渡するようにと理不尽な要求をしてくるので、エルヴィスに曲を提供したくても嫌気がさしてしまったのである。
最も脂が乗っていた時期の偉大なプロデューサーだったリーバー&ストーラーの才能に対して、パーカー大佐たちも映画会社もまったく何の敬意も払わなかった。

そんな裏事情のために良い楽曲が集まらなくなってきて、箸にも棒にもかからない映画の中で流れる曲なので、エルヴィスもまた選んでいても、ひらめきやアイデアが湧かなくなってしまったのだ。
これぞ悲劇としか言いようがない。

そうした危機に気づかないままだったエルヴィスはあっというまに雲上人となって、マネージャーのパーカー大佐が望んだ通りに、保守的な南部の模範青年を演じるようになっていく。

1962年の4月に出した「グッド・ラック・チャーム(Good Luck Charm )」を最後に、全米1位の曲がまったく生まれなくなってしまう。
エルヴィスは27歳にして、生きながら伝説化していくしかなかったのである。

コンサートもテレビ出演も行わず、物語の脈絡に関係なく新曲を披露する他愛もない映画を年に3本公開し、それらが入ったアルバムを固定ファンに売るというワンパターンが5年間も続いた。
お金だけはたっぷり入ってきたが、足元が日ごとに崩れておぼつかないものになっていく。

最初に熱狂していた若者たちや少年たちはとうの昔に、エルヴィスを卒業して自分たちでロックンロールやブルースを始めていた。

エルヴィスの歌で天啓を受けたそんな若者や子どもたちの代表が次々に登場するのは、1962年から63年にかけてのことで、異端の革命児という部分を引き継いだイギリスのビートルズと、歌詞に重きを置くアメリカの新しいシンガー・ソングライターのボブ・ディランを両極に、ロックという新しい波が世界を覆っていったことから、エルヴィスは急に過去の人になってしまう。



(注)ラマー・ファイクの証言は(アラナ・ナッシュ著 青林霞訳 赤沢忠之監修「エルヴィス・プレスリー-メンフィス・マフィアの証言-上」共同プレス)からの引用です。
それ以外はすべて、(ジェリー・ホプキンズ著 片岡 義男訳「ELVIS エルビス」角川書店)からの引用です。

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