太田裕美の代表作になった「木綿のハンカチーフ」は当初、『心が風邪をひいた日』というアルバムの中の1曲として誕生したものだった。
しかしレコーディングの段階になって、スタッフたちの間で「いい曲だ」「シングル向きだ」と盛り上がったという。
2018年6月11日に刊行された「ヒット曲の料理人 編曲家萩田光雄の時代」(リットーミュージック)のなかで、萩田光雄がアレンジしたときのことをこう振り返っている。
この曲は松本隆さんが書いてきた歌詞が4番まである長いもので、しかもストーリーになっているため、京平さんもテレビをつけるのに苦労した、という話は有名だ。
私もアレンジを施す段階で「長い!」と思ったが、何とかスピード感を出すために、いろいろと工夫をしている。
例えばイントロのベースは4拍子を刻んでいるが、ギターのフレーズは「ズタタ、ズタタ、タタ」と3拍フレーズになっている。
ギターとベースの拍子が微妙にずれることで、同じテンポでも2倍ぐらいのスピード感が出た。
萩田は編曲の仕事を始めてまもない時期に、南沙織のB面曲だった「この街にひとり」で筒美と仕事を始めた。
その仕事のなかで編曲家として、たくさんのことを学んだという。
その成果が大きく出たのが『心が風邪をひいた日』というアルバムで、萩田は若いのに腕の立つ編曲家だとして大きくクローズアップされていった。
このアルバムが成功と見られたのも、「木綿のハンカチーフ」の存在が大きいこと間違いないだろう。正直な気持ちを言えば、アルバムの中の1曲としてアレンジした「木綿のハンカチーフ」がシングルになり、それをが多くの人に聞かれることになった、その事実が私の中では誇りである。いい仕事したな、と40年以上経った今でも思っている。
さりげないの細部にまで凝っていて、センスが良いだけでなく、実にていねいな仕事に支えられているのが萩田のアレンジの特徴だ。
「ヒット曲の料理人 編曲家萩田光雄の時代」のなかで、萩田は仕事ということについて筒美を通して語ることで、自らの原点というべき姿勢を明らかにしている。
京平さんは、商業音楽の鏡みたいなところをずっとやって来た人で、当時から「筒美京平を真似ることはできない」と言われるほど、他の追随を許さないものがあった。
誰もが「彼には敵わない」と匙を投げた、そのくらいの存在なのだが、あの人の本質はそこにはないと思う。
もちろん、私も京平さんと仕事をした最初の頃に、どこかで影響を受けたかもしれない。
私も、芸術家気取りはまったくなくて、商業音楽の申し子みたいに、結果的にはなっているのかもしれないが、自分のできることが喜ばれ、人の役に立ったことは単純に嬉しい。
それがやりがいなのだから。
萩田が日本の音楽シーンにとっても一番いい時代だったと振り返る、歌謡曲の黄金期の仕事がさまざまな作品とともに、今ようやく後世に正しく伝えられようとしている。
しかし「木綿のハンカチーフ」ではそれまでと違って、弾き語りのスタイルをとっていない。
そのせいもあってか、太田裕美は今ひとつ馴染みにくく感じていたという。
それともう一つ、この歌には「僕」という男性が「君」に語りかけるパートと、「私」という女性が「あなた」に呼びかけるパートが出てくる。
そのために主人公を歌い分ければならないという、歌唱表現におけるの難しさがあった。
アルバムが12月5日に発売された直後の同月21日、「木綿のハンカチーフ」はシングルとして発売された。
シングル化にあたってディレクターの白川隆三は、プロモーションのことなども考えて、短くしようとあれこれ苦心してみたらしい。
だが、長いと言われていた歌詞は結局、どこも削ることが出来なかったという。
そして筒美京平が萩田のアレンジに少し手を加えて派手さを増した、シングル・ヴァージョンが世に出ていった。
「木綿のハンカチーフ」は翌年の年明けからシングルチャートを駆け上り、やがてミリオンセラーを記録することになる。
萩田はこの曲が日本の音楽史に残る曲になり、自らの出世作として認められたことについて、その頃は思いもよらなかったと正直に述べている。
。冒頭、早い動きのストリングスで始まり、フルートや女声コーラスなどが加わり、シングル盤のクレジットは京平さんとの共同で、編曲となった。
2017年にNHK-BSの「名盤ドキュメント」という番組で、『心が風邪をひいた日』について、そして「木綿のハンカチーフ」についてもいろいろな角度から解析され、私も出演したが、まさか40年も経ってこのように取り上げられる曲になるとは、この頃は思いもよらなかった。
ところで太田裕美は「ヒット曲の料理人 編曲家萩田光雄の時代」のインタビューのなかで、「アルバムのほうが好き。シンプルで軽くて、爽やかで」と正直に語っていた。
そして萩田についても、心からの賛辞を贈っていた。
例えば「木綿~」だとギターのイントロ、あれがないと「木綿のハンカチーフ」じゃない、というくらい印象的で、なおかつ歌の持つメロディーの世界を壊さない。そういうものを作れる人ということでは本当にピカイチだと思います。もちろんそれだけじゃなくて、曲全体の持つ良さを倍増して聴かせてくれる職人さんだと思いますね。
萩田は編曲の仕事を始めてまもない時期に、南沙織のB面曲だった「この街にひとり」で筒美と仕事を始めた。
その仕事のなかで編曲家として、たくさんのことを学んだという。
その成果が大きく出たのが『心が風邪をひいた日』というアルバムで、萩田は若いのに腕の立つ編曲家だとして大きくクローズアップされていった。
このアルバムが成功と見られたのも、「木綿のハンカチーフ」の存在が大きいこと間違いないだろう。正直な気持ちを言えば、アルバムの中の1曲としてアレンジした「木綿のハンカチーフ」がシングルになり、それをが多くの人に聞かれることになった、その事実が私の中では誇りである。いい仕事したな、と40年以上経った今でも思っている。
さりげないの細部にまで凝っていて、センスが良いだけでなく、実にていねいな仕事に支えられているのが萩田のアレンジの特徴だ。
「ヒット曲の料理人 編曲家萩田光雄の時代」のなかで、萩田は仕事ということについて筒美を通して語ることで、自らの原点というべき姿勢を明らかにしている。
京平さんは、商業音楽の鏡みたいなところをずっとやって来た人で、当時から「筒美京平を真似ることはできない」と言われるほど、他の追随を許さないものがあった。
誰もが「彼には敵わない」と匙を投げた、そのくらいの存在なのだが、あの人の本質はそこにはないと思う。
もちろん、私も京平さんと仕事をした最初の頃に、どこかで影響を受けたかもしれない。
私も、芸術家気取りはまったくなくて、商業音楽の申し子みたいに、結果的にはなっているのかもしれないが、自分のできることが喜ばれ、人の役に立ったことは単純に嬉しい。
それがやりがいなのだから。
萩田が日本の音楽シーンにとっても一番いい時代だったと振り返る、歌謡曲の黄金期の仕事がさまざまな作品とともに、今ようやく後世に正しく伝えられようとしている。
なお自宅でテープレコーダーを聴きながら譜面を書いているキャッチアップ画像は、20代なかばでアレンジの仕事を始めた頃のものだという。
(注)文中の引用はすべて、『ヒット曲の料理人 編曲家・萩田光雄の時代』によるものです。
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