ジョン・レノンの代表曲といえば、今ではほとんど条件反射的に「イマジン」が取り上げられる。
だが、この曲が他の作品よりも高く評価されるようになったのは、1980年の12月8日にニューヨークの自宅前で銃撃されて亡くなってからのことだ。
ジョンが亡くなって6日後、未亡人となったオノ・ヨーコの呼びかけで開かれたニューヨークの追悼集会で、黙祷の始まりには「平和を我等に」が流れ、終わりを告げたのが「イマジン」だった。
それから約1か月後、イギリスでは5年前に出されていたシングル盤が、チャートを急上昇して1位となった。
セントラルパーク内のストロベリー・フィールズという区画に出来たジョン・レノンの記念碑は、1985年10月9日にニューヨーク市に寄贈されたが、造園及び維持費として100万$以上をオノ・ヨーコが寄付した。
石で描かれた円形のモザイクには、中央に「イマジン」の一語がはめ込まれている。
アーティストの死から30年ほどが経った今でも、ニューヨーカーやアメリカ人はもちろん、世界中からたくさんの観光客がこの場所を訪れる。
そこに飛び交う言葉はさまざまだが、誰もが口ずさむのはお馴染みの歌詞、”♪Imagine all the people living life in peace.”だ。
大人から子ども達までが普通に歌える曲として、この歌が世界中に伝わっていることがわかる。
「イマジン」は1971年9月9日、アメリカで発売されたジョン・レノンのアルバム『イマジン(Imagine)』の表題曲として、最初に登場した後にシングルカットされて、全米チャートで3位のヒットになった。
だが、その時点ではジョンの歌声を活かした、メロディの美しい歌のひとつであった。
しかし何度かのエポックメイキングな出来事に出会うことで、「イマジン」は平和を訴える歌として全世界に知られていく。
悲劇を起こさないために作られた曲が、悲劇と出会うことで成長していったのだ。
1988年に製作されたジョン・レノンの自伝的映画は、『イマジン(原題:Imagine: John Lennon)』と名付けられた。
この映画公開を機に、ジョンの生誕50年となる1990年に向けて、夫人で公私ともにパートナーだったオノ・ヨーコは、世界における弱者の問題改善や環境保護への取組みを訴えて動き始めた。
ジョン50回目の誕生日を迎えた10月9日、東西ドイツ統一の興奮が冷めやらぬ中で、オノ・ヨーコはニューヨークにある国連信託統治理事会の議場に招かれた。
そこで「一人の夢はただの夢、皆の夢は現実となる」とスピーチして喝采を浴び、「イマジン」が議場に流れる様子が世界130カ国にテレビ中継された。
「イマジン」が世紀を越えて歌い続けられる契機となった決定打は、発表から30年後の2001年9月11日に起きた同時多発テロだった。
NYの貿易センタービル爆破のあと、アメリカでは一挙に国家主義の気運が広がり、イラク攻撃の支持は90%に達した。
アメリカの大手ラジオ局のネットワークでは、放送に不適当な150曲がリストアップされ、そこに「イマジン」も入っていたが、一方では多くのリクエストも寄せられていた。
犠牲者への追悼コンサートが開かれた9月21日、ニール・ヤングが歌った「イマジン」は大きな反響を呼んだ。
9月23日のニューヨークタイムズには、広告主の名もないこんなメッセージ広告が掲載された。
想像してみよう、みんなが平和に暮らしているところを。
ニューヨークタイムズ社にはすぐに多くの問い合わせが入り、広告主がオノ・ヨーコであることがわかると波紋を呼んだ。
街中では大規模な反戦デモこそ行われなかったが、セントラル・パークで静かに「イマジン」を歌いあう人々の風景がニュースなどで伝えられ、この歌の存在がますます印象づけられていくことになった。
日本では「どんな些細なことでも夢を持つこと。それが世界を変えていく大きな力となるのです」というオノ・ヨーコの提唱により、教育に恵まれない世界の子どもたちを支援するチャリティ・コンサート、『Dream Power ジョン・レノン スーパー・ライヴ』が2001年から開催されている。
過去13回のコンサートに参加した日本のアーティストは194人、支援した学校は29か国124校にもなる。
とりわけ2007年12月8日、日本語の「イマジン」を育ててきた忌野清志郎が歌った9分以上に及ぶテイクからは、この歌に対する万感の思いが伝わってくる。
<ぜひ、こちらのコラムも御覧ください。ジョン・レノンの「イマジン」も聴けます。>
イマジン~“グレープフルーツ”の産物