1970年の夏にCSN&Yから抜けたニール・ヤングは、自身のソロ・ツアーをスタートさせている。そして1971年の1月19日、ツアーはカナダのトロントでの公演日を迎えた。
トロントは、ニールの生まれ故郷である。幼少時代のヤング家は、ニールが患っていたポリオの症状改善のために、オメミーやフロリダ、ウィニペグなどを転々としていた。
だからニールがトロントで暮らした時期はそれほど長くはないが、それでもトロントは特別な場所だとニールは語っている。
ここは私がコールズ・ブックストアで働き、リヴァーボート・フーテナニーでプレイし、イビサ・ストリートの小さなフラットで曲を書き、学校に通い、母親と父親の別離を経験し、ロイ・オービソンのレコードを買い、新聞を配達していた場所なのだ。間違いなく、私の人生における大きなエポックだった。
会場となったマッセイ・ホールは、19世紀末に建てられた古いコンサートホールだ。トロントでの凱旋コンサートはソールドアウトとなり、追加公演が決まって二部構成となった。第一部にはニールの父親、スコット・ヤングが観に来ていた。
ニールが高校生のときに、両親は離婚している。そのときに母親に引き取られたニールは、父親とはたまに会うだけの関係になってしまった。
離婚してしばらくのあいだ、母親はいつも父親をののしっていたが、私はいつも、彼に愛されているのがわかっていた。
ショウが始まる前、ニールは久々に再会した父親と少しのあいだ話をした。すると、前に会ったときとは雰囲気が変わった、と言われたという。
父親に会えたのはうれしかった。ずいぶんひさしぶりだったからだ。私は全身全霊でプレイした。
このときの演奏をライヴ・アルバムにしてリリースすべきだと進言したのは、プロデューサーのデイヴィッド・ブリッグスだ。
ブリッグスは音楽制作のパートナーともいうべき存在で、ニールがソロ・デビューを果たした1968年からブリッグスが亡くなる1995年まで20年以上に渡り、数々の作品でプロデュースを手がけている。
その年の春にはライヴ・アルバムをリリースすることが予定されていて、マッセイ・ホール公演を含めて、ツアーのいくつかは録音されていた。
だがニールは、制作に取り掛かっていた『ハーヴェスト』を優先する。そしてライヴ・アルバムはリリースされることなく、お蔵入りとなってしまうのだった。
その後、『ハーヴェスト』は大ヒットしてニール・ヤングの人気を不動のものにし、今も代表作の一つとして多くのファンに愛されている。
しかしそれから35年後、ニールはマッセイ・ホールでの公演のテープを聴いて、デイヴィッドのアドバイスを無視してしまったことを後悔したという。
デイヴィッドのいう通りだった。聴き終えたわたしには、彼のフラストレーションが感じ取れた。こっちのほうが『ハーヴェスト』よりも出来がいい。もっとたくさんの意味がある。彼は正しかった。わたしは見過ごしてしまったのだ。
アーカイヴ・シリーズの第ニ段として2007年にリリースされた『ライヴ・アット・マッセイ・ホール1971』は、カナダで1位を獲得した他、全米チャートでも11週に渡ってチャートインを続け、アコースティック・ライヴ・アルバムの新たな金字塔として高い評価を集めた。
「Neil Young Archives」では『ライヴ・アット・マッセイ・ホール1971』を含め、数多くのニール・ヤングの作品をハイレゾ音質で聴くことができます
Neil Young Archives(英語、PCのみ、GoogleChrome推奨)
チュートリアル動画
引用元:
『ニール・ヤング自伝Ⅰ』ニール・ヤング著/奥田祐士訳(白夜書房)
『ニール・ヤング自伝Ⅱ』ニール・ヤング著/奥田祐士訳(白夜書房)
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