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ニール・ヤングに憧れる不良少女だったリッキー・リー・ジョーンズ

2016.09.20

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1979年、彗星のごとく音楽シーンに登場したリッキー・リー・ジョーンズ。
3月に『浪漫』でアルバム・デビューを果たすと、その1ヶ月後には人気番組「サタデー・ナイト・ライヴ」に出演して喝采を浴び、7月には世界でももっとも格式高いホールの1つ、カーネギー・ホールでのコンサートを成功させる。
ソングライティングの才能もさることながら、ハスキーさと幼さという相反する2つを合わせたような独特の歌声は多くの人たちを魅了し、翌年のグラミー賞では最優秀新人賞を受賞した。



リッキーが生まれたのは1954年、家はシカゴでヴォードヴィルを生業としていた。
ヴォードヴィルとは、20世紀前半にアメリカで栄えたエンターテイメントで、音楽はもちろんのこと、コメディから手品にいたるまで、人を楽しくさせるものであれば何でも詰め込んだショーのことだ。

そうした家庭の影響もあり、幼い頃から音楽に慣れ親しんでいたリッキーは、高校に入る頃には自分で曲を書いては歌うようになる。
その頃に出会ったのがニール・ヤングのレコードだ。
ニールは憧れの存在となり、歌い方はもちろん、服装までも真似をした。

「私がちょっと上ずった声で『ダメージ・ダン』を歌ってると、お母さんが『あ、その歌い方、さてはニール・ヤングの歌ね?』って言ってきたりしたのよ」




音楽に夢中だったリッキーだが、一方では教師への反抗的な態度が問題となって学校を追い出され、別の高校に転入してはまた問題を起こしてすぐに追い出されてしまうという繰り返しだった。
この頃のリッキーは酒にタバコはもちろんドラッグから果ては中絶と、まさに不良少女の典型ともいう日々を送っていた。

18歳の誕生日を迎えた1972年11月8日、リッキーはミュージシャンとしての道を進むために家を出る。そしてたった1人、カリフォルニアのロサンゼルスに向かった。
そこで雑用の仕事の仕事をしながら大学で人類学と音楽を学び、21歳の頃にはクラブで歌い始める。
するとトム・ウェイツやドクター・ジョンといったミュージシャンからそのソングライティングと歌の才能を認められ、1978年には大手レコード会社のワーナーと契約を果たすのだった。

デビューからまもなくして大きな成功を掴んだリッキーだが、決して商業的にはなることはなく、数年に1枚のペースで丁寧に納得のいく作品を発表し続けてきた。

そんな彼女が2012年にリリースしたのが『ザ・デヴィル・ユー・ノウ』だ。
「見知らぬ悪魔より知り合いの悪魔の方がまし」ということわざから付けられたであろうこのアルバムには、ローリング・ストーンズの「悪魔を憐れむ歌」をはじめ、ザ・バンドやヴァン・モリソンなど、若き日のリッキーの心を掴んだ“悪魔”のような魅力を持つロック・ナンバーが数多くカバーされている。

その中にはもちろん、憧れの存在だったニール・ヤングの曲も入っている。
曲は『アフター・ザ・ゴールド・ラッシュ』に収録されている「オンリー・ラヴ」だ。
「愛はどんな心でも壊すことができるから気をつけたほうがいい」という内容で、いわばニール・ヤング流のアンチ・ラブソングである。
10代の頃に真似をして歌っていたであろうこの曲を、50代半ばのリッキーはかつての自分に語りかけるかのように優しく歌う。

あなたがまだ若かった頃 自分だけが頼りだったあの頃

独りでいるってどんな感じだった?






<リッキー・リー・ジョーンズ来日公演>


2016/10/4(火)
ビルボードライブ東京
1stステージ開場17:30 開演19:00
2ndステージ開場20:45 開演21:30
サービスエリア:9,800円
カジュアルエリア:8,300円
詳細はこちら



リッキー・リー・ジョーンズ『ザ・デヴィル・ユー・ノウ』
Universal

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