バッファロー・スプリングフィールドが解散したのは、1968年の夏のことだった。
はっぴいえんどに影響を与えたことでも知られるこのロックバンドは、1966年にカリフォルニアで結成された。
当時のカリフォルニアはヒッピー全盛期で、サイケデリックな文化が氾濫していた。しかし彼らはそういった方向には行かず、カントリーやスワンプを取り入れた正統派のロックを発信し、高い評価を獲得していった。
そんなバッファロー・スプリングフィールドがわずか2年足らずで解散してしまった最大の要因は、スティーヴン・スティルスとニール・ヤングという才能あふれるミュージシャン2人の衝突が絶えないことにあった。
バンド解散後、スティルスは意気投合していた2人のミュージシャン、元バーズのデヴィッド・クロスビー、そして元ホリーズのグラハム・ナッシュと共にクロスビー・スティルス&ナッシュ(CS&N)を結成する。
そこにはひとつ問題があった。
スティルスはバッファロー時代に所属していたアトランティック・レコードと、クロスビーとナッシュの2人はコロムビア・レコードとの契約が残っていたのだ。
これによりアトランティックとコロムビアの間では争奪戦が始まったが、最終的にCS&Nと契約したのはアトランティックだった。
CS&Nのデモテープを聴いたアトランティックの創始者、アーメット・アーティガンは彼らの音楽に惚れ込んでおり、契約したばかりだったバンド、ポコを手放してまで獲得に向けて動いたのだ。
こうしてアトランティックから、1969年の5月29日リリースされたCS&Nのデビュー・アルバム『クロスビー・スティルス&ナッシュ』は、評論家から高い評価を集め、全米アルバムチャート6位というヒットを記録した。
このアルバムについて、ナッシュは以下のように振り返っている。
「ファースト・アルバムのセッションは、僕たち三人の結合状態が信じられないくらいのレベルにまで達していた」
3人のボーカルが織りなす、寸分の隙もない美しいハーモニーからは、その結合レベルの高さが伝わってくる。
もはや新しく誰かが加わる余地などないほどに、CS&Nの音楽は強く結束していた。
しかし彼らはそこで満足せず、さらに上の次元を目指して新たなメンバーを探し始めたのである。
最初に候補として挙がったのは、エリック・クラプトンのブラインド・フェイスでキーボードを弾いていたスティーヴ・ウィンウッドだった。
ブラインド・フェイスはすでに解散していたが、ウィンウッドは残ったメンバーらと新たなバンドをスタートさせており、CS&Nに加わることはなかった。
その後も3人は候補者を挙げては声をかけたが、なかなか色好い返事はもらえず、メンバー探しは難航した。
そんなある日、スティルスと食事をしていたアーメットはある提案をした。
「クロスビー・スティルス&ナッシュにニール・ヤングを入れよう。ニールにはこのバンドに合いそうな何かがある」
「でもアーメット、彼とは2回もケンカ別れしたんだ。今さらどうやって入れられるとでも?」
スティルスが言うように、ニールはバッファロー・スプリングフィールドの解散以前にも一度脱退している。
しかし、アーメットはバッファロー・スプリングフィールドの時から、スティルスとニールの2人によって生まれる音楽に惚れ込んでいた。
ケンカ別れには当事者のひとりとして関わっていたが、それも承知の上での提案だった。
ニール・ヤングが加入することは、グループの結束を崩壊させる恐れがある、いわば劇薬だった。しかしCS&Nの音楽がさらなる飛躍を遂げるであろうことは、誰もが認めるところだった。
グループの安定と音楽の飛躍。両者を天秤にかけた結果、CS&Nはアーメットの提案を受け入れたのである。
声をかけられたニールは、3人と対等な関係であることを条件に、グループへの加入を受け入れた。
こうしてCS&Nに「Y」が加わり、クロスビー・スティルス・ナッシュ&ヤング(CSN&Y)は誕生したのである。
7月25日に初めてステージに立った彼らは、その数週間後にウッドストック・フェスティバルで演奏し、瞬く間にその名を全米に轟かせていくのだった。
(このコラムは2017年7月25日に公開されたものです)
参考文献:
『ニール・ヤング 傷だらけの栄光』デヴィッド・ダウニング著/平田良子訳(リットーミュージック)
『アトランティック・レコードを創った男 アーメット・アーティガン伝』ロバート・グリーンフィールド著/野田恵子訳(スペースシャワーブックス)