オーダーリン どうか信じてくれ
もう君を傷つけたりはしない 約束するよ この通りさ
僕のことなんかもういらないって君が言った時
僕は泣き崩れてしまいそうだった
僕なんかにもう用はないと君が言った時
僕は悲しみのあまり死にたくなったよ
1970年(昭和45年)6月5日、ビートルズの「オー・ダーリン」(東芝音工)が日本で発売された。
同年の国内ヒットソングといえば…
1位「黒ネコのタンゴ」/皆川おさむ
2位「ドリフのズンドコ節」/ザ・ドリフターズ
3位「圭子の夢は夜ひらく」/藤圭子
大阪万博が開幕し、日本航空機よど号ハイジャック事件発生、空前のボーリングブーム、そして“ウーマン・リブ”(Women’s Liberation の略で女性自身の手による女性解放
運動を意味する)という言葉が流行した年でもある。
この曲はビートルズの11thアルバム『Abbey Road』(1969年)の4曲目に収められている。
当時、本国イギリスやアメリカではシングルカットされていなかったが、翌年になって日本でのみシングル盤が発売された。
実際に曲を書いたポール・マッカートニーがリードヴォーカルを取っており、ジョン・レノンとジョージ・ハリスンがコーラスを担当している。
甘い声が“売り”のポールが、この曲では情熱的なシャウトを披露している。
当時レコーディングが行われたアビイロードスタジオの近所に住んでいたポールは、他のメンバーよりも早くスタジオ入りし、寝起きのようなこの曲のヴォーカルを録音したという。
後年、ジョンはこの曲(ヴォーカルパート)についてこんな発言をしている。
「ポールの歌は良くない。俺の方がもっとうまく歌えたのに。俺に歌わせなかったのがあいつのセンスのなさだね。」
それは1969年1月2日、年明け早々の出来事だった。
ビートルズのメンバーは、イギリス老舗撮影所トゥイッケナム・フィルム・スタジに姿を現した。
もはや先行きが見えなくなってしまっていたバンドの活動状況を打破する為に、ポールが打ち出したのは“ゲットバック(原点に帰る)”というコンセプトだった。
ポールは他のメンバーに対してコンサートツアーの再開を提案したが…ジョンもジョージもリンゴも難色を示したという。
話し合いの結果「リハーサルなどを含むドキュメンタリー映像作品を制作してテレビで放送する」という事で合意した4人は、このフィルムスタジオでリハーサルを開始したのだった。
しかし、いつも撮影されているというプレッシャーやポールとの気持ちのズレなどを理由に(一週間後には)ジョージがスタジオを出て行ってしまう。
数日後にジョージは復帰するが、当初の番組制作の企画は流れることとなる。
映像撮影、そして「オーバーダビング(重ね録り)をやらない」というコンセプトのアルバム制作は続行されるものの…同年1月30日のルーフトップコンサート、そして翌日に地下のアップルスタジオで行われたセッション(撮影)をもって、ビートルズはこのプロジェクトを放棄することとなる。
残された撮影・録音テープは、90時間を超えていたという…
その撮影テープは後に映画『レット・イット・ビー』となり、録音された音源はフィル・スペクターの手によってまとめられ、ビートルズのラストアルバム『Let It Be』として翌1970年5月8日に発売される。
ファンの間で伝説となったそのセッションからしばらく経った頃、ポールはジョージ・マーティンに一本の電話をかけた。
「もう一枚アルバムを作ろうと思うんだけど、またプロデュースしてくれないかな?」
4人はすでに気持ちがバラバラになっているにも関わらず、再びアビイロードスタジオに集結する。
3ヶ月後の4月20日、アビイロード第2スタジオにてビートルズにとって最後のレコーディングがスタートする。
この「オー・ダーリン」は、そんな複雑な状況の中で録音された曲の一つだった…