手塚治虫率いる虫プロダクションが制作し、国産のTVアニメ第1号となった『鉄腕アトム』の放送が1963(昭和38)年の元日から始まった。
それが高視聴率を得たことによって、本格的なTVアニメの時代が到来することになる。
10月には『鉄人28号』、11月には『エイトマン』と『狼少年ケン』のオンエアが始まり、いずれも人気番組となったのだ。
『鉄腕アトム』の音盤化に成功し、ソノシートをヒットさせた朝日ソノラマの橋本一郎はこの成功に続けとばかりに、この3番組についてもソノシート化に成功した。
日本のアニメーション制作の中心的存在である東映動画(現在の東映アニメーション)が初めててがけたTVアニメ『狼少年ケン』は、手塚治虫の元アシスタントで手塚や東映動画のスタッフから“天才アニメーター”と賞された月岡貞夫が中心になって制作された。
「鉄腕アトム」を通じて虫プロと関係を深めつつあった橋本は、月岡が東映動画で初のテレビ向けアニメ作品を任されていることを耳にして、練馬区大泉の東映動画を訪れた。
早々に音盤化の契約にこぎつけた橋本は『狼少年ケン』のみならず、その後の東映動画の作品についても独占契約を結ぶことに成功する。
当時のレコード会社はまだアニメ音楽の持つ可能性に気付いていなかったので、橋本と朝日ソノラマは一歩先んじることができたのだった。
『狼少年ケン』の主題歌と劇伴音楽を手がけたのは、新進気鋭の作曲家だった小林亜星である。橋本は出入りしていたスタジオのCMディレクターから、「まさに彼はミューズの宝庫だよ」と紹介されて知り合った。
やがて『狼少年ケン』の音楽が小林亜星に決まったと聞いて、「これはきっと突き抜けたすばらしいものができるぞ」と、胸を高鳴らせたことを著書に記している。
そして実際に完成したものは、その期待を裏切らなかった。
音出しをはじめると、打楽器のわくわくするサウンドがスタジオに響き渡りました。叩くという音楽の弾けるような躍動感が、ショッキングなまでに鮮烈で刺激的でした。
〈略〉
アニメソングの新たな時代の幕開けを告げる画期的な主題歌が仕上がりました。
(橋本一郎著『鉄腕アトムの歌が聞こえる~手塚治虫とその時代~』)
橋本は「鉄腕アトム」に始まった初期のアニメソングを振り返って、「アニメソングは幸せな星の下に誕生した」とも語っている。
もしも旧態依然とした童謡や小学唱歌で育ったレコード会社の大御所、ベテランの作詞家や作曲家が制作に関わっていたならば、新しい時代の息吹を放つ新鮮な音楽が誕生しなかったかもしれないとも述懐していた。
それまでの子供番組の主題歌というものがどんなものだったかを知っていれば、橋本の「時代遅れの空々しい伝心力のないものになっていたに違いありません」という言葉にもうなずける。
例えば、最初から海外への売り込みまで考えていた手塚治虫は、高井達雄に一旦は断られても作曲を依頼し直している。そして納得のいく音楽が出来て満足しながらも、素晴らしい感性の持ち主だった詩人の谷川俊太郎に出会うまで、主題歌を作るのを待っていたのだ。
「エイトマン」にしてもクレージーキャッツの大ヒット曲を連発していたジャズ出身の萩原哲晶が、その勢いを鈍らせずに作曲したことでヒットをものにした。
だからこそ多くの子供達から支持を得ることができたのだろうし、その成功がアニメーション制作という新しい分野の可能性を提示し、多くの制作者たちに刺激を与えたと言える。
小林亜星は『狼少年ケン』からほどなくしてサントリーオールドやレナウンのCMソングで注目を浴びて、若きCMソングの大家として名を馳せることになる。
そしてテレビアニメの仕事も長く続けて、『ひみつのアッコちゃん』や『魔法使いサリー』のほか、『科学忍者隊ガッチャマン』『まんが日本昔ばなし』など数多くの音楽と主題歌を手掛け、日本のアニメ音楽の歴史に大きな功績を残している。
阿久悠とのコンビで子供向けの「ピンポンパン体操」をヒットさせる一方で、歌謡曲の作家としても都はるみの代表曲となる「北の宿から」を、同じく阿久悠とのコンビで作った。
また『狼少年ケン』の主題歌は2004年にサントリーのコーヒー、2009年にはロッテのガムのCMに歌詞を変えて使われたことによって、世代を越えて口ずさめる楽曲となった。
「突き抜けたすばらしいものができるぞ」という橋本の予感は的中し、期待以上に多くの人々に長きにわたって受け入れられたのである。
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