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ブルース・スプリングスティーンをも巻き込んで世界を股にかけた『ヒューマン・ライツ・ナウ』

2024.09.01

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1986年10月末、ロサンゼルスのホテルでは2人の男がランチをとりながら、ロックスター達を巻き込んだ壮大な計画について話し合っていた。

一人は国際人権NGO、アムネスティのアメリカ支部で事務局長を務めるジャック・ヒーリー。もう一人はアムネスティが手がけた慈善ショウ、『シークレット・ポリスマンズ・ボール』のプロデュースを手がけた作家、マーティン・ルイスだ。

ヒーリーとアムネスティ・アメリカはその年の夏、ロックスターたちによる全米ツアー『コンスピラシー・オヴ・ホープ』を成功させていた。

次の展開としてヒーリーが考えていたのは、世界人権宣言が採択されてから40周年を迎える2年後の1988年に、マジソン・スクエア・ガーデンで24時間のショウをやりたいというものだった。

しかし、マーティンは首を横に振り、別の案を出した。

「ほら、全米ツアーを終えただろ、次はもっと大きなことをやらなきゃ、そう、ワールドツアーをやるんだ!」

「そうだ、世界中を回ろう! 全ての大陸でコンサートをしよう。どの大陸の人も見逃すことがないように…このムーヴメントから取り残されていると感じないように」


ヒーリーは全米ツアーの制作を手掛けたビル・グラハムを、再びプロデューサーとして起用する。大勢のアーティストとスタッフ、そして大量の機材を運びながら、五大陸を旅するという壮大な企画を聞かされたビルは、莫大になるであろう予算を確保できるほどの集客力を持つアーティストは誰か考えた。

ピーター・ガブリエルとスティングの参加は決まっていたが、それでもまだ不十分だとビルは判断した。マイケル・ジャクソンやローリング・ストーンズ、ポール・マッカートニーなど超大物が候補として挙がる中、ビルはブルース・スプリングスティーンに狙いを定め、ピーター・ガブリエルにその交渉役をお願いする。

ピーターはサンフランシスコで、公演中のスプリングスティーンを捕まえると、食事の席でツアーのことを話した。スプリングスティーンのマネージャー、ジョン・ランドウによれば、ブルースは話を聞いてすごくやる気になっていたという。

「あいつとバンドの収入という面から考えると、莫大な損失だったけど、そんなこと、気にもとめてなくて『チェックしようぜ。すごくいい話のように聞こえるけど、とりあえずチェックしてみよう』と言ってたっけ」


あまり大人数でツアーを回るのは現実的ではないというジョン・ランドウの指摘により、出演アーティストは5組に絞られた。
スティングとピーター・ガブリエルとブルース・スプリングスティーン、それに黒人女性シンガーソングライターのトレイシー・チャップマン、そしてセネガルが生んだワールド・ミュージックのスター、ユッスー・ンドゥールだ。

5組のアーティストによる世界ツアー『ヒューマン・ライツ・ナウ』は、1988年の9月2日にロンドンからスタートした。そこからまずはヨーロッパを回り、北米、アジア、アフリカを経て最後に南米、その行程で15カ国を訪れ、1ヶ月半で全20公演という超ハードスケジュールだ。

ツアー中のストレスやフラストレーションは並大抵ではないが、それに加えてビルとジョン、ヒーリーらによる衝突も絶えなかった。それぞれがツアーを成功させるため最善を尽くそうとしていたが、それゆえに意見が対立してぶつかり合ったのだ。

それでもアーティストたちはツアーを楽しみ、最高のパフォーマンスを披露した。ピーター・ガブリエルは「参加者全員にとって、あれは人生を変えるような経験だったと思うよ」と振り返っている。

コンサートでは毎回地元のアーティストがゲストで出演し、最後にはボブ・ディランの「チャイムス・オヴ・フリーダム」が歌われた。この曲を全員で歌おうと提案したのはスプリングスティーンだ。

「こういった曲をこれほどたくさん成功させたのはディランしかいないよ。だから僕は言ったんだ。「なあ、みんなでこれをやらないか?」って。僕らはその曲と「ゲット・アップ・スタンド・アップ」を演奏した。僕らがカバーした2曲は、このイベントのテーマに相応しい偉大な曲だと思ったよ」


「チャイムス・オヴ・フリーダム」


「ゲット・アップ・スタンド・アップ」

コンサートの来場者数は累計で100万人を超え、アムネスティの会員数は3倍にも膨れ上がった。差別や拷問がまかり通っているような国で、人権に対する意識を高めることができたという意味でも、『ヒューマン・ライツ・ナウ』は大きな成果を得るのだった。

またアーティストたちにとっても、ジンバブエやコートジボワール、ニューデリーといったそれまでロック・コンサートが催されなかった国々で大観衆を熱狂させたことは、何物にも代えがたい経験となった。

ブルース・スプリングスティーンはこのように振り返っている。

「僕らはそれほど世界を知ってはいなかったんだ。だから、あの経験は僕らの目を見開かせてくれたよ。とてつもない冒険だった…決して消えない印象を残してくれたんだ」


参考文献:『ビル・グレアム ロックを創った男』ビルグレアム、ロバートグリーンフィールド著/奥田祐士訳(大栄出版)

*このコラムは2017年8月に公開されました。


アムネスティ・インターナショナル・プレゼンツ 〜ザ・ヒューマン・ライツ・コンサート 1986-1998


ヒューマン・ライツ・ナウ〜ライヴ・イン・ブエノスアイレス 1988

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