世界中から多種多様なアーティストたちを日本に呼ぶ祭典、東京音楽祭が始まったのは1972年のことだ。音楽祭といっても今のフェスのようなものではなく、むしろコンクールといったほうがいいだろう。
日本で開催される国際的なポップスのコンクールとしては、ヤマハが2年前に東京国際歌謡音楽祭、のちの世界歌謡祭をスタートさせており、第2回からはフジテレビでその模様が放送されていた。
これに対抗するかたちで、TBSが主導となって誕生したのが東京音楽祭だった。東京音楽祭が目指すのは、イタリアのサンレモ音楽祭やヨーロッパ最大級のコンテスト、ユーロビジョン・ソング・コンテストと肩を並べるような、世界最大級の音楽祭だ。
その第1回は5月13日に武道館で開催された。
のちに「黒い瞳のナタリー」を大ヒットさせ、世界でもっとも売れたラテン・シンガーとなるフリオ・イグレシアスをはじめ、世界各国から実力派のシンガーたちが素晴らしい歌を披露した。
それらを押さえて大賞を取ったのは、「私は泣かない」を歌った雪村いづみだ。彼女は日本の歌手が世界に匹敵するレベルにあることを証明してみせたのである。なお、日本人が大賞を獲得したのはこれが最初で最後だった。
第1回が成功に終わった東京音楽祭はその後も毎年開催され、第2回では海外からのエントリーがおよそ5倍の373曲に膨れ上がる。第3回で金賞となったスリー・ディグリーズの「天使のささやき」は世界的な大ヒットとなり、東京音楽祭は世界的にも一目置かれるイベントとなっていった。
そして1981年、記念すべき第10回にはスペシャルゲストとしてスティーヴィー・ワンダーが招待され、過去最高の盛り上がりを見せた。
本番が終わるとそのあとは毎年恒例となっているさよならパーティー、いわば打ち上げがあるのだが、そこで思いもよらないことが起きた。
22時を回り、そろそろお開きにしようかという空気が漂いはじめた頃、突然スティーヴィー・ワンダーが会場にあったピアノを弾いて歌い出したのである。
その様子は、作詞家のなかにし礼の著作『世界は俺が回してる』の中で特に印象的なシーンのひとつとして描かれている。
グランプリに輝いたノーランズが、金賞のジャーメイン・ジャクソンが、特別歌唱賞のランディ・クロフォードが、ステージに上がっていき、スティーヴィーを囲んだ。もう会場は熱狂の渦だ。
世界的なアーティストであるスティーヴィーを間近で見る機会など滅多にあるものではない。その場にいる誰もがスティーヴィーに釘付けとなった。
このときの曲目は「イズント・シー・ラヴリー」から始まり、「ハイアー・グラウンド」など何曲かを披露、最後には「レイトリー」を歌った。
「レイトリー」は1980年に発表されたアルバム『ホッター・ザン・ジュライ』に収録されているバラードで、男女の別れを描いたこの歌はさよならパーティーの締めに打って付けだった。
生まれて間もなくして視力を失ったスティーヴィーにとって、音楽は「世界とのコミュニケーション」なのだという。さよならパーティーで突然歌いだしたのは、素晴らしいパフォーマンスを披露した出演者たち、そしてスタッフたちに対するささやかなお礼だったのかもしれない。
参考文献:『世界は俺が回してる』なかにし礼著(角川書店)