1960年代、ニューヨークの街は多くのアーティストを生み出した。
学生たちを中心にフォークミュージックは一大ブームを迎え、街中のカフェで多くのミュージシャンたちがギターを爪弾きながら歌っていた。
その中には、ボブ・ディランやジョーン・バエズ、トム・パクストンらの姿もあった。60年代の半ば頃からは、後のミュージックシーンの主役となる大物たちも、この街にやって来始める。
ジョニ・ミッチェル、レナード・コーエン、ジャクソン・ブラウン、ママス&パパスのジョン・フィリップス、リンダ・ロンシュタットなどなど…ニューヨークの街は、アーティストを育てる“揺りかご”のようだった。
当時、ディランと人気を二分しながら、その才能を期待された男がいた。
彼の名はティム・ハーディン。
ジャズミュージシャンの父親とクラシックのミュージシャンの母親を持つ彼は、1941年12月23日にオレゴン州で生まれた。ディランと同い歳である。
彼は18歳で海兵隊に志願しヴェトナムへと向かう。
その2年後、除隊と同時に故郷を離れ東海岸へと移住し、ニューヨークのグリニッチビレッジやボストンでフォークシンガーとしての下積み活動を始める。
多くのアーティスト達がそうだったように、レコード会社との契約に漕ぎ着けながらも、いわゆる“売れない時代”を経験する。
そんな中、当時エンター・テイナーとして名を馳せていたボビー・ダーリンが彼の楽曲「If I Were a Carpenter(僕が大工だったなら)」をカヴァーしてヒットさせたのだ。
これをきっかに、彼の曲は様々なアーティストたちによってカヴァーされることになり、ソングライターとして彼の名は有名になっていった。
その曲は、彼が25歳の頃に最愛の妻・スーザンへ捧げたラブソングだった。
もし僕が大工で、君がお嬢さんだったなら
それでも僕と結婚してくれるかい?
僕の赤ちゃんを産んでくれるかい?
君に僕の全てをあげよう、僕に君の明日をおくれよ
──転機は1969年だった。
グラミー賞の初受賞と同時に自身がMCを務めるTV番組が放送スタートし、大飛躍を遂げていたジョニー・キャッシュがアルバム『Hello, I’m Johnny Cash』の中で、この「If I Were a Carpenter」をカヴァーし、楽曲は再びスポットを浴びることとなる。
同年に開催されたウッドストック・フェスティバルに出演をきっかけにティム・ハーディンの名前は脚光を浴びるようになり、彼はようやく“ミュージシャンとしての生活”を手に入れた。
続いて1971年にロッド・スチュワートの大ヒットシングル「Maggie May」のカップリング曲として「Reason To Believe」がヒットチャートを上昇し、彼は作家として大いに将来を期待されるようになる。
また、彼はシンガーとしてもその才能を認められており、オリジナル楽曲はもちろんのこと、レナード・コーエンの作品「Bird On The Wire(電線の鳥)」や、ジャズ/ブルースのスタンダード「Georgia On My Mind(我が心のジョージア)」などもカヴァーして歌った。
レイ・チャールズは「ライトニン・ホプキンス、俺に続く3人目のブルースシンガーだ!」と彼を絶賛した。
その歌唱はブルース色が強く、ディランより早くエレクトリックを取り込みながらも、ジャズに傾倒しながら自分の音楽との融合を図り、自らを“ジャズシンガー”と呼び、彼は常に先進的な姿勢を貫いた。
そんなサクセスストーリーの裏で、彼は常に大きな問題を抱えていた。
ヴェトナムの戦地で覚えたというヘロインが、彼の音楽人生を短く悲劇的なものにしたのだ。
当時のフォークやロックのミュージシャンたちが常習していたマリファナではなくジャズミュージシャンと関わった彼はヘロインに溺れ、ステージ上でのトラブルや常軌を逸した行動が災いし、彼の人生からは大切な音楽も最愛の妻と息子も去って行く事となった。
──1980年12月、ジョン・レノン(享年40)が凶弾に倒れ世界中が悲しみにうちひしがれていた頃…39歳の誕生日を迎えたばかりの彼は人知れず帰らぬ人となった。
それは、ほとんど自殺といってもよい悲劇的な死だった。
ティム・ハーディン、12月29日没。死因は薬物過剰摂取による心臓発作。
「僕が大工だったなら…」と妻への愛を歌にした彼は、誰からも愛されることなく寂しくこの世を去っていったのだ。