「最初にポップミュージックを聴いたのはBBCのラジオだ。うちにはレコードプレイヤーがなかったからね。父親は鉱石ラジオを作るのが好きだった。戦争が終わったばかりの頃は、手製の鉱石ラジオをあちこちで見かけたものさ。ある日、父親が家庭用のすてきな大型ラジオを買って、僕と弟は床にぺたんと座ってそれを聴いていたんだ。そしたら父親は(やっぱり戦争の余剰品で)子供たちのためにヘッドホンをこしらえてくれてね。その電線を寝室までのばして、ベッドの中でも聴けるようにしてくれたんだ。当時、一番人気があったのは“ファミリー・フェイヴァリッツ(家族のお気に入り)”というリクエスト番組だった。パット・ブーンの“I’ll Be Home”が大人気だったのを憶えてるよ。」
1942年6月18日の木曜日、ポール・マッカートニーはイギリスのリヴァプールで誕生した。
父親はセミプロ級の腕を持つアマチュアのジャズピアニストでもあった。
母方の祖父はアイルランド系で、父方の曽祖父もやはりアイルランド系だった。
彼が生まれた頃のリヴァプールにはまだロックンロールが存在していなかった。
R&Bやカントリーミュージックでさえもほとんど聴かれてなかったという。
リヴァプールの波止場地域は戦時中に敵機の空襲によって壊滅状態となり…彼はそんなズタズタになった街で育った。
しかし、リヴァプールの街にはつねに音楽があった。
彼と弟のマイクは、郊外の小さな家をいくつか転々としながら、父親(ジム)と母親(メアリー)に育てられた。
ジムは音楽に熱を入れつつも、家族を養うために綿花工場で働いていた。
一方、メアリーは家計を助けるために助産師をしていたという。
家族は慎ましくも幸せに暮していたが…1956年、ポールが14歳の時に母親が乳癌で亡くなってしまう。
彼が初めてロックンロールに接したのもその年のことだった。
「ある日、我が家にTVが来て、こんなニュースが流れたんだ。“大変な惨状です。テディ・ボーイとロッカーたちがロンドンの映画館で暴れまわりました。すべての元凶はこれです!ワン・ツー・スリー・オクロック・フォー・オクロック・ロック!”ってね。」
それは言うまでもなく、ビル・ヘイリー&ヒズ・コメッツによる“ロック・アラウンド・ザ・クロック”のオープニングだった。
この曲は映画『暴力教室』の主題歌として使用され、当時イギリスの上映館では、それを聴いたティーンエイジャーたちが暴動騒ぎを起こしていた。
ポールは、その時の衝撃を今でも憶えているという。
「あの日、生まれて初めて背筋に電流が走るのを感じたんだ!」
ポールはその時点でまだ14歳だったが、イギリス人シンガーのロドニー・ドネガンが火つけ役となった“スキッフル”に刺激されてギターを弾くようになっていた。
「ロニーの影響は大きかったよ。僕にも出来るんだ!って実感できたんだ。僕らでもやっていいんだ!ってね。」
戦争が残した辛く悲しい記憶を乗り越えて…リヴァプールで多くの庶民たちが“楽しんでやろう!”と前向きに生きていたという。
「どれだけ貧乏な家庭でも、たいていの家にはピアノがあったんだ。父親から聞いた話なんだけど、うちにあったやつはブライアン・エプスタインの親から買ったものだそうだ。戦争の思い出を消すために、みんな前向きな曲を求めていたんだ。僕はそんな中で育ったんだよ。」
リヴァプールの港には、アメリカ(ニューオーリンズ)からブルースのレコードを持ってくる船乗りたちがいた。
同時に、アフリカの音楽やカリブの音楽も街の彼方此方で流れていたという。
そこでは船乗りたちと移民たちが入り交じって“音楽の坩堝(るつぼ)”が出来ていたのだ。
ポールは、様々な音楽を耳にするようになっていた。
「最初に思い出すのは、家でピアノを弾いていた父親の姿だ。僕はカーペットに寝そべって、父親の弾くジャスやスタンダードナンバーを聴いて育ったんだ。ある日、父が僕にこう言った。“ピアノの弾き方を覚えたら色んなパーティーに呼ばれるぞ”ってね。ラジオもTVもレコードプレイヤーもまだ珍しかった時代、みんながピアノの演奏を囲んで、お酒を飲んだり、歌ったりしながら、ご機嫌になってゆく時間を過ごしたんだ。あの雰囲気は最高に音楽的だったよ。」
<参考文献『ポール・マッカートニー 告白』ポール・デュ・ノイヤー(著)奥田祐士(訳)/ DU BOOKS>