1965年8月27日のエルヴィスとビートルズとの面会は、パーカー大佐のほうから積極的にしかけたといわれている。
ビートルズがテレビ「エド・サリヴァン・ショー」への初出演を果たした64年2月9日、パーカー大佐はエルヴィス・プレスリーの名前で電報を届けていた。本番が始まる30分前にそれを見つけて喜び、大きな声で読み上げたのがボール・マッカートニーだった。
「エド・サリヴァン・ショー」への初出演とアメリカでの初ツアーおめでとう。アメリカでの成功とこれが君たちにとって楽しい訪問となることを祈る。
1964年の初頭からアメリカでも大きくブレイクしたビートルズは、大規模な全米ツアーを8~9月にかけて敢行している。そのためにサンフランシスコのホテルに到着したブライアンとビートルズの一行に、またしてもパーカー大佐からの電報が届いた。
そこには友としての協力を申し出るというエルヴィスの言葉とともに、パーカー大佐に電話をしてほしいという要請があった。
長く安泰だったキングの座を脅かしているイギリス出身の4人組が、若さと勢いだけではなく自ら曲を作って演奏するという、新しい形態の音楽によって全米の少年少女たちの心をつかんだことに、パーカー大佐は早くから注目していたのだ。
アメリカではまだマネージメント経験がないに等しいブライアン・エプスタインを手助けすることで、エルヴィス側の仲間ないしは友人にして、新旧のスーパースターが両立する道を探ろうとしていたのだ。
リヴァプールのレコード店主から身を投じてマネージャーになり、全力を尽くしてビートルズを売り出してきた若者のブライアンにとって、ビートルズのメンバーたちが憧れてきたアメリカのエルヴィスよりも、もっとビッグなスターにしたいというのは、まさに本心であり、目標であり、エネルギーの源であった。
なんとかしてレコード・デビューさせるためにとの思いで、デッカ・レコードのオーディションを受けて交渉したときにも、ブライアンは煮え切らない態度の相手に対してこう訴えていた。
「彼らをテレビに出演させれば、それこそ大騒ぎになりますよ。シャドウズなんかより、もっと有名な人気者になります。そのうちきっと、エルヴィス・プレスリーよりもビックになります」
しかし、リバプールの無名グループをロックンロールのキングと同列に語るブライアンを見て、デッカの幹部たちは戯言にすぎないと交渉を打ち切ってしまった。
ところがそれから2年が経って、すべてはブライアンが思った通りになっていった。ブライアンはいかにしてアメリカを制覇するのか、いつも考えをめぐらしていたのである。
ブライアンがイギリスのNMEの記者だったクリス・ハッチンスの仲介で、初めてパーカー大佐と会ったのは、ビートルズの一行がロスアンゼルス入りしてすぐのことだ。
その翌日にはビートルズの一行が滞在していた邸をパーカー大佐が訪問し、自らメンバーたちに土産をプレゼントしている。
それから1年後、パーカー大佐とブライアンとの話し合いによって、スーパースター同士の対面が行われることが決まった。
ブライアンはこの時、エルヴィスがビートルズの宿泊先を訪問してくれることを希望した。だが、パーカー大佐はここはアメリカなのだからと、エルヴィス邸にビートルズが来るのが筋だと述べて、ブライアンはそれを承諾した。
両者が会う条件は「プレスを入れない。一切写真を撮らないし、録音もしない」というものだった。パーカー大佐にとって重要なのは、両者が会ったという事実だけであった。
その直前のことだが、パーカー大佐のはからいでエルヴィスに秘密裏に面会したのがクリス・ハッチンスである。彼はビートルズに会う気があるかどうかを、その場でエルヴィスに確認してみた。
「ジョン・レノンはどんな風に優秀なんだい? 彼は一人でも成功できたのかな? ビートルズはぼくに会って自分たちの成功を自慢したいだけと、大佐からは聞いてるけど・・・」
エルヴィスは興味深そうではあっても、会うかどうかについては「大佐の勧めに従うよ」とだけ答えた。そして8月27日、北米ツアー中だったビートルズは急きょ、ロサンゼルスのエルヴィス邸を訪ねることになったのである。
〈参照コラム〉ビートルズの4人とエルヴィス・プレスリーが一堂に会した夜
それから12年後の1977年8月16日にエルヴィスが42歳の若さで亡くなった後、ジョン・レノンがマネージャーの存在について、実に重い言葉を残していたことがわかった。
同年10月4日の夜、日本に滞在中のジョンとヨーコ夫妻に招かれた湯川れい子氏は、ホテル・オークラに出かけて会ったときのことを、ジョンが亡くなった後に以下のような文章にしていた。
その日、私は、後に通信販売でさえ入手できるようになるとも知らず、エルヴィスが死亡した日に、彼の生まれ故郷であるテュペロと、その生涯の大半を過ごしたメンフィスとで、それぞれに発行された新聞を、後生大事に持参して、ジョンへの土産とした。
その折に、ジョンが口にしたのは、「スーパースターが生まれるためには、スーパーマネージャーの存在が必要だけれど、結局はどっちが死ぬか生きるか、ってことに、必ずなってしまう。エルヴィスの場合は、トム・パーカーが生き残ってエルヴィスが殺された。私の場合は、ブライアン・エプスタインが死んでくれたから、今もこうして生きていられるのさ」という言葉であった。
エルヴィスがマネージャーに殺されたという意見に、湯川氏もまったく同感だったという。だから後になって分かったこととして、こんな感想も添えていた。
その時は、まさに我が意を得たり、という感じで、夢中でうなずいていたのだが、この折のジョンの言葉には、もっと深い意味があったのだと最近になって知った。
ブライアン・エプスタインがすでに死んでしまっていたからこそ、結果的にビートルズが解散し、ジョンはヨーコ夫人と結ばれ、愛児をもうけて、なおも長い間の葛藤を経ながらも、人間としては平和で幸せな、個人生活を送ることが出来たのだ、と。
エルヴィスと対面を果たした後、ジョンは1966年からずっとビートルズを抜け出すことを考えて、そのための理由を待ち望んでいたとも述べている。
しかし、それだけの度胸(ガッツ)がなくて、なかなか実行に移すことができなかった。なぜならばビートルズという牙城(パレス)から外に出ることが、本当に恐ろしかったからだという。
キングは、常に取り巻きに殺されてしまうんだ。過剰に食べさせられ、過剰にわがままを許され、その王座を彼に守り続けさせるために、過剰に飲まされてね。たいていの人間が、その場所で目を目を覚ませずにとどまってしまうんだ。
「そんなことをしていたらエルヴィス・ビートルになってしまう」と教えてくれたのが、知り合って間もないオノ・ヨーコだった。そして1967年の夏にブライアンが急死したことによって、ジョンとビートルズを取り巻く状況が一挙に変わった。
そこから牙城(パレス)にこもっていたならば、現状維持だけに興味がある取り巻きたちにかしずかれて、一種の死を迎えてしまうと悟ったのは、2年前にエルヴィスと会ったことで学んだことだろう。ジョンは裸の王様でいることを拒否したのだ。
「それがビートルズ解散の真相だったんだ。つまり、ヨーコがビートルズを実際に解散させたわけじゃないけど、彼女が僕にこういったのさ。”あなたは、何も服を着ていないわ”ってね」
(注)文中に引用したエルヴィスの発言は、クリス・ハッチンス&ピーター・トンプスン著 高橋あき子「エルヴィス・ミーツ・ザ・ビートルズ」(シンコーミュージック)からの引用です。
また湯川れい子氏の文章「エルヴィスとジョンの生と死」は、ミュージック・マガジン社発行の「ジョン・レノンを抱きしめて~メモリアル・エディション」から引用させて頂きしました。
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