今日、僕は新聞を読んだのさ オー・ボーイ
いっぱしの地位に上り詰めた幸運な男の話
ニュースは悲しいもののはずだったが
僕は笑うしかなかった
その写真を見たからね
「今や僕らはキリストよりも有名な存在になった。」
1966年7月、ビートルズのアメリカ公演の直後にジョン・レノンが発言した言葉である。
この発言に対して、アメリカ南部ではビートルズのレコードの排斥(はいせき)運動が起こり、白人至上主義団体・KKKはビートルズ人形を焼いて気勢をあげたという。
騒ぎを鎮めるために、ビートルズは異例の記者会見を開き、ジョンは問題となった発言に対して詫びた。
しかし、それだけでは騒動はおさまらず、その後に行なわれたメンフィス公演ではKKKが8000人を率いて会場の外で抗議デモを行い、ステージに向かってゴミを投げつけたり、場内で爆竹を鳴らしたりしたという。
行く先々でそんな“ビートルズ騒動”が続く中、彼らは“ある考え”を固めつつあったという。
アルバムでは『Rubber Soul』(1965年)や『Revolver』(1966年)で、セールス的にも音楽的にも充実した時期を過ごしながら…ツアー先での一連の騒動が、自分達の音楽と関係のないところで起こっていることに彼らは次第に不満をつのらせるようになっていたのだ。
そして1966年8月29日、サンフランシスコでの公演を最後に彼らはライブ活動を停止することを宣言したのだ。
そして翌1967年6月1日、彼らは長期間スタジオにこもって製作したアルバム『Sgt. Pepper’s Lonely Hearts Club Band』を発表した。
世界の有名人達のコラージュをジャケットにしたその作品の内容は実に多彩で、幻想的なドラッグソングをはじめ、反抗の歌もあれば、老いや死に向き合った内容の楽曲も収録されていた。
様々な効果音、電子音、クラシックやインド音楽の要素までを取り入れたサウンドは、まるで万華鏡のようにカラフルで華麗だった。
この時代にしては珍しく、アルバムからシングルカットされた曲は一曲もなく“アルバム全体が一つの作品”として凝った構成のもとに作られていたことから「コンセプトアルバム」という言葉が生まれたという。
1960年代の中頃には、ローリング・ストーンズのアルバム『Aftermath』(1966年)や、ボブ・ディランの『Blonde on Blonde』(1966年)や、ジェファーソン・エアプレインの『Surrealistic Pillow』(1967年)など、優れたアルバムが次々と発表され、それまでのヒット曲と穴埋め曲の寄せ集めだったアルバムのイメージを打ち破ったのだ。
そんな「コンセプトアルバム」という新しい容器を得て、ミュージシャンたちは感覚や思考をより作品に盛り込むことが可能となった。
そんな中、ビートルズが発表したこの『Sgt. Pepper’s Lonely Hearts Club Band』は、大人の社会から認知された最初のロックアルバムとなったのだ。
当時、タイム誌はこのアルバムを「我らの時代のバロメーター」と評したという。
このアルバムがチャートの首位を独走しているのを横目で見ながら、ビートルズの敏腕マネージャー、ブライアン・エプスタインは薬の過剰摂取によって帰らぬ人となった…。
■TAP the POP『ビートルズの敏腕マネージャーが死んだ日』
http://www.tapthepop.net/day/33709
後に“ポピュラーミュージックの歴史を塗り替えた名盤”とも言われることとなったこのアルバムが、20世紀の音楽シーンに与えた影響は計り知れなく大きかった。
邦盤がリリースされたのは一ヶ月遅れの1967年7月5日だった。
日本ではちょうどその前年あたりからビートルズに影響を受けたグループが次々に登場し人気を集めていた。
芸能誌が彼らを“グループ・サウンズ(GS)”と総称して紹介し、まさに一大ブームが起きようとしていた…。
<引用元・参考文献『新版ロックスーパースターの軌跡』北中正和(音楽出版社)>