ビートルズの初期を振りかえって、リンゴ・スターはこんなふうに語っている。
バンドを始めた頃は、いい音楽を作ることだけが目的だった。僕がビートルズに入りたかった理由もそのためだ。彼らはあのあたりで最高のバンドだったからね。だが、ツアーに出てヒット曲を演奏しながら、新たな歌を生産しなきゃならなくなると、そんなことも言ってられなくなる。あれは、僕の人生で最高であると同時に最悪の時期だったと思うよ。
ビートルズは1966年の8月に行ったサンフランシスコのキャンドルスティック・パークでの公演の後、アルバム『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド(Sgt.Pepper’s Lonely Hearts Club Band)』の制作に入った。
そして以前からやめたいと思っていたコンサート・ツアーを終えて、思う存分に時間をかけてアルバム制作をできるようになったことで、メンバー全員が一丸となってレコーディングに関わっていく。
そこからさまざまな実験的な試みにも挑戦してコンセプト・アルバム『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』を、1967年の春に完成させたのである。
1967年6月1日にリリースされたアルバムは、初登場でアルバム・チャートの1位となった。イギリスでは22週連続、アメリカでは15週連続で1位を記録した。しかも、内容的にこれまでの最高傑作と謳われる評価を得ることができた。
続いて6月25日、ビートルズは世界24カ国を結んで行われた史上初の衛星同時中継によるテレビ番組『アワ・ワールド』に出演、未発表の新曲「愛こそはすべて(All You Need Is Love)」を生で歌った。ビートルズはまるで音楽で世界を制覇したような状態にあった。
さらには7月7日に15枚目のシングルとして発売された「愛こそはすべて」が、全英チャートでたちまち1位を獲得する。
その日はリンゴ・スターにとって、27回目の誕生日だった。
しかし、世間の評価や羨望にも関わらず、リンゴの内面は複雑な状況に入りつつあったという。それはレコード・デビューからの5年間における、あまりにも輝かしい成功の反動だった。
ビートルズとして桁外れの大きな成功を手に入れたことによって、リンゴは昔から親しくしている親戚などと食事をしていても、相手がよそよそしくなってしまったと感じていた。そんな時にインドのマハリシに出会って、「超越瞑想」を信奉するようになっていく。
ロンドンのヒルトンホテルで行われたマハリシの講演に、リンゴをのぞいたビートルズが参加したのは8月24日だった。ジョージ・ハリスンが経緯をこう語っている
チケットをとったのは僕さ。実は僕はマントラが欲しかったんだ。前から瞑想したいと思っていたんだけど、そのためにはマントラという他の世界に入るためのパスワードが必要だと本を読んで知っていたからね。
それで、僕たちはいつも一緒に行動していたから、ジョンとポールも一緒にやってきたんだ。
「どうやって瞑想するか教えてあげよう」とマハリシが言ったので、ビートルズのメンバーたちは翌々日のレコーディングをキャンセルし、ウェールズのバンゴアにいるマハリシの元へ列車で向かうことにした。
講演に参加できなかったリンゴ・スターにも、ジョン・レノンやジョージが電話で興奮気味にマハリシのことを薦めた。「超越瞑想」について関心を持った理由を、リンゴは簡潔にこう述べている。
「僕は自分について『僕の存在とは一体何なのか?そして世界とはなんなのか?』色々と考えていたんだ。」
ところがその翌日、8月27日にマネージャーのブライアン・エプスタインが、ロンドンの自宅のベッドの上で死体となって発見される。享年32。
マハリシと一緒にいる時に死亡を知らされたメンバーは、大きな衝撃を受けた。当初は死因がわからず、やがて睡眠薬と精神安定剤の常用による偶発的な事故であると裁定された。
ビートルズの育ての親とも言えるブライアンは、常に主導権を発揮してビジネス面を取り仕切って活躍してきた。だが、アーティストとしての自我に目覚めたメンバーたちを、当時はまったくコントロールできなくなっていた。
すでに自分たちの会社アップルを設立したメンバーたちは、新しいビジネスに進出する準備を進めていたのである。マネージャーを外されるに違いないと悲観したブライアンが、心労によって薬物に頼るという悪循環に陥っていったことは事実だった。
ビートルズのメンバーは誰もが、平静な心ではいられなかった。ジョンは彼の死について、こんなコメントを残している。
「エプスタインが死んだ時、もうビートルズは終わったと思ったよ。」
ブライアンの死で落ち込んでしまったビートルズは、ここから次第に各人がバラバラになっていく。やがてバンドとして分裂状態を迎え、リンゴが一時的にバンドを脱退するのは1年後のことである。
そんな緊張状態だったなかで、リンゴの救いとなったのがマハリシの教えだったという。
ぼくら4人のこれまでの生活といったら、たとえようもないほどうんざりする。お金で買えるものは、ほとんど何でも手に入れた。だけど、そんなことはくだらないって、そのうちわかってくるんだ。すぐに飽きちゃって別のものが欲しくなるのさ。オヤジさんが大酒かっくらうのを見て、酒ってどんな味がするのか試したくなるようなもんだ。今じゃぁ、そのむなしさを埋めてくれるものを見つけたんだ。偉大なる聖者マハリシ・マヘシ・ヨギ会ってからすごくいい気分だ。
レコード・デビューする直前にビートルズに加入したリンゴは、普通ではあり得ないほどのスピードで成功者として頂点に上りつめた。そのプレッシャーと虚しさは、ほんとうに桁外れだったのだ。
ビートルズがインドを訪問したのは、1968年の2月から3月にかけてのこと。ジョン夫妻とジョージ夫妻が2月16日にインドへ行き、少し遅れてポールと当時の婚約者のジェーン・アッシャー、それにリンゴ夫妻が2月19日に合流した。
4人はそこでファンやマスコミとの接触を断ち、1日の5時間を静かに瞑想して過ごす日々を送った。もっとも熱心だったジョージは、「マハリシは、僕たちの内なる心の貯え(神)に瞑想を通して、到達できることを教えてくれた」と語っている。
リンゴは食事が合わないという理由で、わずか10日間でインドを離れたが、その後も瞑想はずっと続けていった。
それから40年の歳月が経って2008年。
68歳を迎えたリンゴが自身の誕生日である7月7日に「ピース&ラヴ」のメッセージを広める活動を始めた。
リンゴもまた「瞑想はマハリシからの贈り物だ。これまで人からもらったものの中で、本当に大切だと思えるものは少ない。瞑想は、その数少ないものの一つだ」と語っている。
「ふと思ったんだよね。7月7日の正午にみんなが『ピース&ラヴ』について思いを馳せたら、なんて素晴らしいんだろうってね。どこでもいいんだよ。バスに乗っていようが、地下道を通っていようが、どこでもいいんだ。『ピース&ラヴ』について思いを馳せてくれたら、僕にとっては大きな贈り物なんだよ」
リンゴは2009年4月に学校へ「超越瞑想」の導入を促進するため、ポールとともに慈善コンサートに参加している。
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