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ジーン・シモンズ少年時代②〜新天地ニューヨークでの暮らし、人生を変えたビートルズの衝撃

2019.02.24

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ジーン・シモンズ。
70年代に一世を風靡したハードロックバンドKISSのベーシスト兼ヴォーカリストとして活躍してきた“ロック界の怪人”だ。
1974年にデビューして以来、KISSの楽曲の作詞・作曲を多く担当し、コンサートにおいては火吹きや血を吐くパフォーマンスなど、演出面でも大きく貢献してきた才人としても知られている。
その他、プロデューサーや俳優としても活動の場を広げながら、実業家としての顔も持っている。
KISSのライセンス商品、権利管理、分配などを担当しており、他にも富裕層顧客を対象にした保険会社など数々の事業を手がけているという。
ちなみに(現在までに)KISSのライセンス商品は約3000点あり、コンドームから棺桶まで揃っているというから驚きだ。
今回は、そんな彼が少年時代にどんな日々を送っていたのか?その生い立ちからロックに目覚めるまでを「前編」「後編」に渡ってご紹介します。



イスラエルでの母子二人だけの暮らしは貧しかった。
肉は配給制で週に一度しか手に入らない。
牛乳でさえ好きな時に買えず、配給切符がなければ口にすることができなかった。
シャワーは冷たい水。
トイレットペーパーというものはなく、ボロ布を洗って何度も使っていたという。

「だけど貧しさはほとんど気にならなかったよ。住んでいたアパートの壁という壁には弾痕があった。イスラエル独立戦争(第一次中東戦争)が残した爪痕だった。そこはアラブ諸国連盟とイスラエルが戦火を交え、市街戦が繰り広げられた街だった。そこら中にあった銃弾でできた穴も、なんとも思わなかったよ。」


両親の離婚が成立し、彼は大きな転機を迎えることとなる。
1958年、8歳になった彼は母親と共にニューヨークに移住。
ラストネームを母方の姓のクライン(Klein)に変える。
その当時イスラエルからアメリカへの移住許可は、ごく限られた人数にしか認められないものだったという。

「ある日のこと、突然、母から着替えるように言われたんだ。これから飛行場へ行くから!俺はそれまで空港を見たことなどなかった。ジェット機はもちろん、飛行機そのものをこの時初めて目にしたんだ。胸が高鳴ったよ。旅行に出かけるのだと思った。タラップを上がり、座席に着いた。酷い乗り物酔いに苦しめられらながら、ようやく辿り着いたのはニューヨークのラガーディア空港だった。まだ子供だった俺にとって、そこは新世界だったよ。」


こうして新天地を求めるようにニューヨークへやってきた母子は、母親の兄の家に身を寄せることとなった。

「ラリー伯父さんは妻のマグダ叔母さんと、子供達と一緒にクイーンズ地区のフラッシング(チャイナタウン)に住んでいた。俺は名前をチャイムからジーンと改めることとなった。この方がアメリカ人らしいからだ。姓もクラインに変わった。俺は8歳半からイスラエル人ではなく、アメリカ人のジーン・クラインになったんだ。」


アメリカに来た当初、ほとんど英語が喋れなかった彼は、TVや漫画に夢中になることで、短期間で覚えたという。

「その頃のアメリカで少年時代を過ごした者たちは、きっとみんな同じなんだ。テレビ、コミック、映画、とにかくエンターテイメントからの影響は大きかったよ。テレビではスーパーマン、トムとジェリー、トワイライト・ゾーン、プラネット・パトロールなどなど。映画と言えば、憧れのカウボーイが登場するジョン・ウェインの作品、それにゴジラなんかも観た。」






時代は60年代を迎え、彼はアメリカの文化の中で思春期を過ごすこととなる。
時は流れ…1960年代の半ば、ティーンエイジャーとなった彼は、音楽に目覚め始める。

「その頃のアメリカの社会情勢は実に複雑だったよ。公民権運動、ユダヤ人に関することなど避けては通れない波が押し寄せてきていた。ある日、母とテレビを観ていると、俺の頭の中で火花が炸裂したんだ!」


それは1964年2月の出来事だった。
ビートルズとの遭遇。
それは彼の人生を大きく変えることとなった。
彼はその日のことを鮮明に憶えているという。

「日曜日の夜だった。俺は母の手作りのハンバーガーにかぶりついていた。エド・サリヴァンショーに登場したおかっぱ頭の4人組。話す英語に奇妙な訛りがあった。彼らが歌い出した瞬間に沸き起こった歓声は、爆撃のような音量だったよ! 凄まじい土石流のように、ビートルズのパワーが押し寄せてきたんだ!」



1968年、19歳になった彼は、サリバンカウンティ・コミュニティ・カレッジで学びながら様々なバンド活動に参加する。
1970年からリッチモンド・カレッジの教育課程で学び、卒業後はマンハッタンの小学校で国語教師として教壇に立つ。
並行してバンド活動も続けており、1970年代初頭には音楽教師のブルック・オストランダーと共にプロ契約を目指す新しいバンドWicked Lesterを結成。
数年前から知り合いだったスタンレー・アイゼン(後のポール・スタンレー)が参加し、1枚のアルバムをレコーディングしたが、レコード会社との契約はうまくいかず発売されることはなかった。
1972年にポール・スタンレーと共にWicked Lesterを脱退し、翌1973年1月、彼らは新しいバンドKISSを結成する…

<引用元・参考文献『KISS AND MAKE‐UP―ジーン・シモンズ自伝』ジーン・シモンズ(著)大谷淳(翻訳)/シンコーミュージック>

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