ジーン・シモンズ。1970年代に一世を風靡したハードロックバンド、KISSのベーシスト兼ヴォーカリストとして活躍してきた“ロック界の怪人”だ。
1974年にデビューして以来、KISSの楽曲の作詞・作曲を多く担当し、コンサートにおいては火吹きや血を吐くパフォーマンスなど、演出面でも大きく貢献してきた才人としても知られている。
その他、プロデューサーや俳優としても活動の場を広げながら、実業家としての顔も持っている。KISSのライセンス商品、権利管理、分配などを担当しており、他にも富裕層顧客を対象にした保険会社など数々の事業を手がけているという。ちなみに(現在までに)KISSのライセンス商品は約3000点あり、コンドームから棺桶まで揃っているというから驚きだ。
「僕は昔ながらの起業家だ。舌を突き出すのは別として、何をするにも金儲けと結びつけて考える傾向があるし、KISS以外の分野でもかなり稼いでいるよ」
そんな彼が27歳を迎えた年の春、KISSはボブ・エズリンをプロデューサーに迎えて制作したアルバム『Destroyer(地獄の軍団)』(1976年)をリリースした。同アルバムからシングルカットされた「Beth」は、全米7位を記録する大ヒットとなる。
「1976年、俺達は大がかりなツアーをスタートさせた。まずはヨーロッパに飛んだ。ロンドンのヒースロー空港に到着した俺達はフル装備でメイクアップした姿だった。どこもかしこも記者とカメラマンばかりだったよ。あちこちの名所にでかけては写真を撮った。俺はイギリスの空気を胸いっぱいに吸い込んだ。ビートルズの国なんだ。感慨深かったよ。俺にとっては聖地巡礼のようなものだった」
この時、ロンドンで思ってもみなかった人物と遭遇し、いささか“手厳しい”挨拶をされたという。
「ある日の晩、俺達はロンドンで有名なクラブ“マーキー”へ遊びに行ったんだ。満員の会場を歩き回り、誰か面白そうな奴はいないか?いたら知り合いになりたいと思って目を走らせていたんだ。酒は呑まない主義の俺はカウンターでコーラを注文した。そこにパティ・スミスがいたんだ。同じ並びに二人組のいい女が座っていた。俺はいつもの調子でパティや女達に声をかけようとした。次の瞬間、パティが振り向きざまに俺の頬にパチーン!と平手打ちをして、かなり汚い言葉でののしり、そして去っていった。なぜだかわからなかったよ。俺はそんなことはおかまいなしに、残った二人の女のところへ行って口説き、二人ともホテルへ連れて帰ってホットな夜を過ごしたよ。後から知ったんだが、その二人は“キッド・クレオール&ココナッツ”のメンバーだった」
KISSにとっては初の世界ツアーでもあったDESTROYER TOURは、前年のツアーをも凌駕する観客動員数を記録した。同年の秋、アルバム『Rock and Roll Over(地獄のロックファイアー)』発売。同アルバムからのシングルカット曲「Hard Luck Woman」がヒットする。
当時のシモンズは、今まで味わったことのないほどの達成感に満たされていたという。それは、これまで彼が何年も追い求めてきたものだった。
「メンバーも家族もKISSの成功を喜んでいたよ。しかし、頂点に達する一方で俺達は他のロックバンドから一線を引かれるようになっていたんだ。メンバーがゲストなどで他のバンドのレコードやライブでプレイすることは一切なかった。舞台裏でも他のミュージシャンとのつきあいはなかった。KISSはある意味、非常に孤独な存在だったんだ。それは、憧れのビートルズを見習ったことなんだ。ビートルズがステージを踏むときは、そこにいるのはビートルズだけだ。それがローリング・ストーンズであれば、ティナ・ターナーなど飛び入りしてくることもある。ビートルズのステージに上がってくる者などいない。俺はKISSというバンドについて、ビートルズと同じように考えていたんだ」
彼らはツアー先で様々なミュージシャンから「ジャムろうか?」と誘いを受けても、首を縦に振らなかったという。オフステージでも、他のバンドやミュージシャンと親しくつきあうことはなかった。
「俺の場合は、女を追いかけるのに忙しかったこともある(笑)。俺の頭の中はKISSのことと、“今夜の女はどれにするか”ただそれだけだった」
1970年代の半ば、KISSの人気は沸騰し、ティーンエイジャーや子供までもがレコードを買うまでとなっていた。ファン層の拡大は様々なKISSグッズに需要があることを意味していた。ランチボックス、ステッカー、ノート、鉛筆、消しゴム、KISS印のトイレットペーパーなど、あらゆるグッズ販売に力を入れ始めた頃から、メンバー内での確執が生じはじめたという。
「エースとピーターは気に入らないと言った。グッズを扱う大がかりなビジネスを二人は理解できていなかったんだ。ポールさえ渋っていた。そのようなものはロックンロールにふさわしくないと」
1977年初頭、アメリカを、そしてヨーロッパを征服したKISSは日本へ向かった。武道館での連続公演はすべてソールドアウトで、ビートルズが持っていた動員記録を更新した。
彼らはイギリスの時と同様、フル装備とメイクアップ姿で羽田空港を降りた。ところが、日本の税関はKISSのメンバーを全員引き止めて入国を拒んだのだ。彼らがパスポートの写真とは似ても似つかない姿だったので、同一人物であるかどうか確かめるまでは、入国を受け入れるわけにはいかなかったのだ。メンバーは仕方なくメイクを落とし、何とか入国をパスした。そして、到着ロビーを出る前に再びメイクを施したのだ。
メンバーが空港から外に出ると、そこには5000人ものファンが待ち受けていた。日本のプロモーター(ウドー音楽事務所)は、同じ車を2台用意した。車に乗り込んだメンバーは、反対側のドアから抜け出してもう一台の車に乗り込んだ。群衆が追っかけたのは影武者の車だった。ところが、一部のファンの目はごまかせずに、結局彼らは追われる身となった。
「おびただしいファンが押し寄せてきて、車の屋根によじ登るヤツもいた。彼らはすさまじいまでのKISSマニアだったよ。映画“ビートルズがやって来る、ヤァ!ヤァ!ヤァ!”を観たことがあればわかってもらえると思う。まさにあんな感じ。いや、もっと凄かったな!」
彼らの乗った車は前後左右に大きく揺さぶられ、警備の手が入らなければ危険な状態になるほどの歓迎ぶりだった。日本のファンたちはKISSのメイクにとても親しみを感じていたのだ。その理由として、彼らのメイクが歌舞伎の隈取りに似ていたことと、テレビに出てくるヒーローに似ていたからだという。
「女も良かったぜ! わんさと寄ってきた。まさに手当たりしだい、濡れ手に粟だったよ。弾丸のように走る列車で移動した。俺達の行くところはどこにでもファンが追っかけてきたよ。特に女が多かった。曖昧な笑みを浮かべ、プレゼントをくれて、凄まじいまでの叫び声をあげた」
同年、彼らはアルバム『Love Gun』と『Alive II』(1977年のライヴと5曲のスタジオ新録曲を収録)を発売。『Love Gun』は予約で100万枚を突破し、オリジナルメンバーによる作品歴代最大の売上を記録する。『Alive II』からのシングルカットは、エースが歌う「Rocket Ride」がヒットを記録。KISSは誰もが認める全米を代表する人気バンドとなるが、この頃からメンバー間のほころびが目立つようになる。解散とまではいかなかったが、メンバーそれぞれが、自分のやりたいことを追うようになってきたのだ。
「バンドとしてはこの程度持てばもう十分だろうとも思っていた。ビートルズなんて何十年も続いていたかのように感じられていたけど、よく考えてみると、たったの10年しか存在していなかったんだから。レコーディング活動だけで言えば“Please Please Me”から“Let It Be”までのわずか7年だ。俺達は結成5年目にして、ストレスでバラバラになりそうだった」
<引用元・参考文献『KISS AND MAKE‐UP―ジーン・シモンズ自伝』ジーン・シモンズ(著)大谷淳(翻訳)/シンコーミュージック>
Destroyer
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執筆者
佐々木モトアキ プロフィール
https://ameblo.jp/sasakimotoaki/entry-12648985123.html



