1965年7月23日、彼はイングランドのマンチェスターとバーミンガムのおよそ中程に位置する街、ストーク・オン・トレントで生まれた。
イギリスではビートルズがアルバム『Rubber Soul』を発表し、ローリング・ストーンズが『Rolling Stones No.2』をリリースした年だった。
イギリス人で白人の父(アンソニー)と、後にファッションデザイナーとして大成することとなるアフリカ系アメリカ人の母(オーラ)の間に生まれた彼は、自分の出生についてこんな風に語っている。
「俺の両親は60年代にパリで出会い、恋に落ち、そして俺を産んだ。人種も大陸も超えた彼らのような交わりは普通じゃなかったし、それは彼らの創造性の節操のなさもまた同じこと。そんな二人でいてくれたことに、俺は感謝している。彼らが俺に晒してくれた環境は、とんでもなくカラフルでユニークだった。おかげで子供の頃の経験すら、俺には消えない印象を残している。」
両親が出会った時、母親のオーラはまだ17歳で、父親のアンソニーは20歳だった。
アンソニーは生まれながらの絵描きで、歴史上の絵描きたちがそうしたように、息苦しい生まれ故郷を離れ、自分探しのためにパリに出たという。
オーラは早熟で、ハツラツとしていて、美しい女性だった。
彼女はファッション界で人脈を作るために、故郷のロサンゼルスを出てパリに来ていた。
衣装デザイナーとしてのキャリアは1966年頃に始まり、やがてその顧客には、ジョン・レノン、リンゴ・スター、リンダ・ロンシュタット、ジェイムス・テイラーなどが名を連ねるようになる。
彼が生まれて間もなく、母親のオーラはビジネスの拡大と家族の足場となる経済基盤を築くために単身でロサンゼルスに戻った。
以降4年間、父親のアンソニーがストーク・オン・トレントで彼を育てたという。
「俺は父親の両親のもとで育ったんだ。祖父母にしてみれば、自分の息子が奔放なアメリカの黒人に惚れて子供を授かってパリから戻ってきたんだから、そりゃ驚いたと思うよ。」
幼い息子が電車移動に耐えられるようになると、すぐに父親はロンドンに住み着くようになる。
「ポート・ベローにある茶黒いレンガ造りの長屋だったよ。一般的な家族が住むような場所ではないとすぐ2歳か3歳の俺は悟ったね。当時、父親はちょっとしたボヘミアン的なライフスタイルに憧れていたんだ。人の家に押しかけ、ソファーで眠って何日も自宅には戻らない。部屋にはブラックライトや風変わりなランプが光っていた。自称アーティストみたいな連中がいつも出入りしていて、子供の俺にもビリビリくるような興奮が溢れていたんだ。」
数年後、父子はロサンゼルスにいるオーラと共に暮らし始める。
60年代の終わりから70年代初頭のロサンゼルスは、アーティストや若者たちにとって憧れの場所だった。
アートや音楽に関わっているイギリス人にとっては特別な街だったという。
イギリスの重苦しい体制と比べて、クリエイティヴな仕事が溢れていたし、天候もロンドンの雨と霧に比べると快適そのものだった。
「母親はファッションデザイナーの仕事で成功への切符を掴もうとしていた。父親は生まれ持ったアートの才能をグラフィックデザインに活かして仕事を請け負い始めた。母親が音楽業界にコネを持っていたから、父はアルバムジャケットのデザインをするようになった。」
一家はローレルキャニオン大通りを折れて、ルックアウト・マウンテン通りを上り詰めたあたりの、極めて60年代っぽいコミューンで暮らしていた。
そこは、山腹に家々が豊かな緑に囲まれて立ち並んでいる場所だった。
そのほとんどがゲストハウス付きのバンガローで、風変わりな造りの建物が多く、住民たちはオーガニックな生活をしていた。
「うちから数件先にはジョニ・ミッチェルが住んでいたし、その頃はキャニオンストアの裏手にジム・モリソンも住んでいて、イーグルスを結成しようとしていたグレン・フライもいた。なんだか誰もが繋がっているという空気があったんだ。実際、母親はジョニの衣装をデザインしていたし、父親は彼女のアルバムジャケットを手掛けていたよ。」
ローレルキャニオンで約2年間暮らした後に、一家は南下してロサンゼルス市内で暮らすようになる。
彼が暮らす家の壁には、落ち着いた色調のペンキが塗られることは一度もなかったという。
家の中にはいつもマリファナの香りが漂っていた…
<引用元・参考文献『スラッシュ自伝』スラッシュ(著), アンソニー・ボッザ(著), 染谷和美(翻訳)/シンコーミュージック>