日本が誇る稀代のロックアーティスト、山口冨士夫。彼の名をロック史に永遠に留めることになったのが1970年に結成され1973年に解散した伝説のロックバンド「村八分」だ。
村八分、ティアドロップスと、数多くのバンドでギターを弾きながら日本のロックカルチャーを作ってきた彼は少年時代にどんな日々を送っていたのだろう?
「物心ついて間もなく、俺は自分が普通の日本人と違っていることに気づいたのさ。顔のカタチから何から何までが、そこら辺のガキとは違うってね。親父は会ったこともない。おふくろの記憶ぐらいは頭の裏にでも残っていればいいと思ってるよ」
1949年8月10日、東京都内にて日本人の母と進駐軍の軍人だった父の間に生まれた山口は、家庭の事情で3歳の頃から孤児院で育った。
「ある日何故だか知らないが、おふくろに連れられてホーム(孤児院)に置き去りにされたんだ。彼女が道の角を曲がるまで、その後ろ姿を見送っていた。それっきり二度と会えなくなるなんて思ってもいなかったけどね。ガラスが粉々に砕け散るような何かを感じたのを憶えている。それが俺の最初の記憶かな」
その日から彼は孤児院の職員(愛称オバちゃん)に育てられた。“富士夫”という名前も、そのオバちゃんが付けたという。
「山がつくヤマグチだから富士ってことになったらしい。美しいだろ?(笑)」
戦後10年も経っていない時代だった。近所に住む子供達から「鬼畜米兵の子供だ!」と罵声を浴びせられる日もあった。
「嫌でも他の人とは違うっていう意識を持つようになるってもんだ。俺に罵声を浴びせたガキどもには、片っ端から仕返ししてやったよ。石神井公園にあった防空壕に閉じ込めてやったりしてな(笑)」
山口が育った“ホーム”と呼ばれる孤児院は、保育所から幼稚園までを兼ねていた。ホームの子供達は、6歳になると普通の小学校に通うこととなる。戦後の貧しい時代、様々な事情を抱えた親達が溢れていた。
「俺が来た頃のホームは最初5人くらいだった。しだいに10人に増え、15人になり、しまいには60人くらいまでになってたよ。それをオバちゃんが一人でやってたんだから、大変だったと思うぜ。でもその甲斐あって、のちにオバちゃんは天皇陛下から勲章をもらってたよ」
その頃の日本の教育には、ある特殊なルールがあった。日本の上層部からの指示によって、彼らのような“戦争の落とし子”に対して、まるで去勢するかのような普通とは違う教育が準備されていた。大人になって反旗を翻さないように、禁欲的で洗脳のような厳しい教育を押しつけていた。
「だけどそんな教育とは裏腹に、ホームのオバちゃんは子供達の一人ひとりの個性だけは伸ばそうと努力していた。スポーツが好きなヤツには好きなだけスポーツをやらせていたし、俺がどんどん音楽に惹かれていくのを見ていても、なにも文句は言わなかったよ。それどころか熱心に応援してくれたものさ」
本格的に音楽にのめり込んでいったのは、小学校4年生の時だった。クラスメイトが自作のトランジスタラジオを作り、いつも持ち歩いていたという。その小さな箱から流れてくる音楽に心を奪われていった。
「ラジオは、それまで退屈だった俺を毎日を一変させた。湯川れい子さんの番組や糸居五郎さんというDJが構成していた“電話リクエスト”がお気に入りだった」
ロイ・オービソン、クリフ・リチャード、リトル・リチャード、そしてエルヴィス・プレスリー。ラジオを通じてロックの洗礼を受けていく。
「湯川さんもそうだけど特に糸居さんっていう人は、ヒット曲はもちろん、自分自身の趣味のものや、凄くマニアックな音楽までかけてたんだ。偉大なDJだったよ! 俺が尊敬している人のひとりさ」
山口が育ったホームには、“慰問”という形で様々な芸能人やスポーツ選手などが訪れた。ジェリー藤尾、アイ・ジョージ、青山ミチなど彼と同じハーフという運命を背負った歌手やタレントも多く足を運んでいた。
「その中でもナット・キング・コールが来た時は最高だったよ! アメリカの黒人歌手で、たしか子供の頃はアメリカの中で虐げられて育った人さ。それが自分自身の実力で大スターになって、いい歌をたくさん唄って自信を持って生きている」
ほどなくして、彼は自分でバンドを組んで歌いたい!と思うようになる。そのきっかけはホームに一枚だけあったレコードだった。
「なぜかホームにはハリー・ベラフォンテのアルバムがあったんだ。正確に言うと、そのレコード一枚しかホームにはなかったんだ。それしかなかったから何度も何度も聴いてたんだ。そのうち凄く好きになっちゃってさ。いつの間にか俺もバンドを組んで歌いたい!と思い出したんだ。」
その貴重な一枚と同じく、ホーム(孤児院)にはたった一つだけ楽器が置いてあった。それは一本のウクレレだった。自然とそのウクレレを手にするようになる。孤児院のオバちゃんの弟みたいな人が、弾き方を教えてくれた。12歳になると、阿佐ヶ谷の東原中学に進学。
「特別ワルってわけでもなかったけど、マジメでもなかったな。相変わらずケンカもよくしてたし、当時流行ってた睡眠薬なんかを飲んだりして不良を気取ってたりもしたよ(笑)学ランのズボンをラッパにしたりしてさ。とにかく不良がモテる時代だったんだよ」
中学生になると、人生を変えるほどの音楽体験をすることとなる。1963年のある日、「イギリスから凄いバンドが出てきたらしい!」と学校中に噂が流れる。海の向こうからビートルズの情報が流れ出した時期だった。それまでラジオで聴いていたロイ・オービソン、リトル・リチャード、エルヴィス・プレスリーも好きだったが、一発で心を撃ち抜かれたという。
「プリーズプリーズミーを聴いた瞬間、ぶっ飛んじまったよ!」
労働者階級から出てきて世界中にその名を知らしめたバンドに、憧れは募るばかりだった。
「俺もあんな風になりてぇな」
ウクレレをギターに持ち替えた。稀代のロックアーティスト、山口冨士夫の音楽人生はこの日から始まった。
※初稿では山口氏の父親を「イギリス人」としておりましたが、信ぴょう性に欠けるため「進駐軍の軍人」という表現に修正させていただきました。
※初稿では「孤児院(ホーム)」の意味を取り違えて、「駅のホーム」としておりました。2021年8月18日の時点で修正させていただきました。こちらのミスで誤った文章となっていたことをお詫び申し上げます。
<引用元・参考文献『So What』山口富士夫(著)/ K&Bパブリッシャーズ>



