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19歳の山口百恵が「私自身に近いところで歌が呼吸していた」と書いた「プレイバックPartⅡ」

2024.01.17

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山口百恵が所属するホリプロダクションの傘下にある音楽制作会社、東京音楽出版の原盤制作ディレクターとして、モップスや井上陽水を手がけていた川瀬泰雄が新たにスタッフに加わったのは、3枚目のシングル「禁じられた遊び」からだった。

そして5枚目のシングル「ひと夏の経験」は1974年6月に発売されると、ヒットチャートで3位まで上昇して初のベストテン入りとなった。

そして6枚目の「ちっぽけな感傷」も同じく3位にランクインした後、12月10日にリリースされた7枚目の「冬の色」で、とうとうシングル・チャート1位を獲得した。

しかし一度ピークをきわめると、それまでの路線には少しづつ閉塞感のようなものが立ち込めて、新しい方向性を打ち出す必要が出てくる。
そのときにニューミュージックやロック系のアーティストに、楽曲を依頼することが検討され始めた。

候補に挙がったのは井上陽水や矢沢永吉、中島みゆきらの名前であったという。
その中にダウン・タウン・ブギ・ウギ・バンドを率いて「港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ」のヒットを放っていた宇崎竜童と、夫人で作詞家の阿木耀子の名前もあった。

川瀬はそんな時に山口百恵本人から、「宇崎さんの歌をうたってみたい」と言われたのだ。
そこから「横須賀ストーリー」という代表曲が生まれたことで、山口百恵は本当の自分の歌と出会うことになる。



川瀬は著書「プレイバック 制作ディレクター回想記」Gakken)のなかで、「阿木さん宇崎氏との出会いが、歌手としての百恵をいっそう成長させた」と記している。

百恵自身が、デビューから徐々に成長していくにしたがって、男性の作詞家が描く少女心理の世界に、百恵は没入することが、だんだん困難になってきたのだろう。そこへ阿木さんの登場である。


とくに阿木耀子の書く無垢な少女のイメージは、生きて呼吸している山口百恵自身と見事に重なるものだった。
そのことについて、彼女は引退して結婚した後になってから三浦百恵として、こんな文章を書き記している。

阿木さんの詩を宇崎さんのメロディにのせて歌う時だけが、本気になれた。
歌うというよりも、もっと私自身に近いところで歌が呼吸していた。
思えば阿木さんの詩を歌い始めた頃から、実生活での私の恋も始まったのだけれども、阿木さんの詩の中に書かれた言葉が、私に恋という感情のさまざまな波模様を教えてくれたようにも思う。
恋をする中で感じた思いを、詩の中に言葉として見つけだしていた。
詩の中から、言葉で飛び込んできた感情が、今度は現実の恋の間(はざま)に見えかくれしていた。
阿木さんの詩は、そうして私の心の奥深くまで染み込んで行った。
(阿木耀子著『プレイバックPartⅢ』新潮文庫 所収 三浦百恵による「解説」より)


宇崎竜童=阿木燿子コンビによる作品と山口百恵の相性はきわめて良く、「パールカラーにゆれて」、「夢先案内人」、「イミテーション・ゴールド」とヒット曲が続いた。

1978年に「プレイバックPartⅡ」を作詞したとき、阿木耀子は歌のなかに2箇所出てくる科白(せりふ)めいたフレーズを、上手く歌い分けてほしいと思っていたという。

しかし完ぺきを求めるあまりに作品作りの段階で時間がかかってしまったことから、楽曲が完成してデモ・テープが出来上がったのはレコーディングの日の明け方だった。

そのデモテープを萩田光雄が昼までにアレンジし、待たせているミュージシャンでカラオケを録音し、そこから山口百恵の歌を吹き込まねばならない。
さらにその後にミックスまでを終わらせて、夜中に工場へマスターテープを納品しないと、発売日に間に合わなくなるスケジュールだった。

そんな切迫したぎりぎりの状況で、多忙をきわめていた山口百恵もテレビの収録からスタジオに駆けつけて、その場で聴いたばかりのデモ・テープを頼りに、ヴォーカルを録り始めていった。

阿木耀子は科白めいたフレーズを打ち合わせる時間もなく、始まってしまった歌録りを聴くことになった。

最初に歌ったテイクをプレイバックして聴いたときの印象を、著書『プレイバックPartⅢ』のなかでこう述べている。

私は百恵さんのプレイバックの声を、スタジオのミキサールームのあのスピーカーで聴けたことを、とても幸福に思う。
 最初を十八歳で、次を三十歳で歌い分けてほしいと言うより前に、モニター用のスピーカーから流れてくる声はまさしくそうなっていた。
「バカにしないでよ」
「馬鹿にしないでよー」
 十八歳の百恵さんの中に、確かにしたたかな大人の女が透けて見えた時、本当に凄(すご)いなと思った。



山口百恵はほかには誰も歌いこなすことができないような歌詞、そしていろいろな含みのあるフレーズを、あの低い声で吐きすてるかのように歌った。
そして歌詞とメロディとサウンド、そして歌声や台詞が全部がひとつになって、ドラマティックな表現に昇華していった。

これを10代で自然にやれたということが、山口百恵という表現者の比類のない強みだった。
山口百恵は「プレイバックPart2」で史上最年少の19歳にして、『NHK紅白歌合戦』(1978年)で紅組のトリを務めている。

(注)本コラムは2016年9月24日に公開した『〈吐きすて〉の歌の系譜⑤=19歳の山口百恵が放った本気のフレーズ~「馬鹿にしないでよ そっちのせいよ」』を、改題して加筆したものです。


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