1977年の夏に流れた資生堂のキャンペーン「サクセス、サクセス、」で、コピーを書いたのはコピーライターの小野田隆雄だった。
そこから生まれたのが作詞:阿木燿子、作曲:宇崎竜童による「サクセス」である。演奏はダウン・タウン・ブギウギ・バンド、編曲はメンバーだったキーボーディストの千野秀一、歌ったのは宇崎竜童。
しかし当時はロックバンドに対する偏見や拒否感があり、特にツナギ・ルックとサングラスにリーゼントのダウン・タウン・ブギウギ・バンドは、ツッパリのイメージが強かった。
しかもヒット曲「スモーキン・ブギ」が、未成年にとって禁じられている喫煙がテーマだったこともあって、どことなく反社会的なイメージがついていた。
そのために資生堂の上層部に理解が得られないだろうという配慮から、「サクセス、サクセス、」というキャンペーンで流すのは、宇崎竜童の音楽という扱いになった。
クオリティが高いことで知られた資生堂のCM音楽を、長年にわたってプロデュースしていたのはオン・アソシエイツの大森昭男である。大森は前年に成功した宇崎竜童にふたたび、1978年も作品を依頼するつもりにしていたという。
ところが化粧品メーカーのトップだった資生堂を追っていたコーセー化粧品が、いち早くダウンタウン・ブギウギ・バンドにタイアップの話を持ちかけて抑えてしまった。
コーセー化粧品はバンドそのものを全面に出した企画の「香りブルース」で、ダウンタウン・ブギウギ・バンドと組んだのだ。シカゴ・ブルースをバックに、男の優しさについて宇崎竜童が語るという12分の大作は、確かにバンドにとっては魅力的な企画であっただろう。
計画を立て直すことにした大森はそのとき、ではどうやって前年以上にインパクトがある音楽を作るかと考えていて、そこに矢沢永吉の名前が出てきた。
矢沢が革ジャンにリーゼントのロックン・ロール・バンド、キャロルのメンバーとしてレコード・デビューしたのは、1972年のことだ。
矢沢永吉はその頃から強烈なインパクトを持っていたが、1975年の9月にソロ・アーティストとしてデビューした後は、スーツ姿のダンディな大人になってさらにスケール感が増していた。
とはいえ、コンサートの客席にはバンド時代からのファンが多かったので、ツアーではしばしば「危険だから貸さない」と、会場から貸すことを拒否されている状態にあった。当然ながらテレビの歌番組などに出ることも、取り上げられることもなかった。
しかし、大森は資生堂の宣伝プロデューサーだった田代勝彦や演出家の黒田明と相談して、矢沢永吉に作曲と歌を依頼することに決める。
資生堂側が考えた「時間よ止まれ」というキャッチコピーは、前年の「サクセス、サクセス」と同じくコピーライターの小野田によるものだった。
絵コンテとコピーが矢沢永吉のところに届けてからまもなく、矢沢自身のメッセージが入ったカセットテープが大森に送られてきた。それを聞いた印象を大森はこう語っている。
「ギター一本で自分でメロディーを歌われていたんです。作詞は山川啓介さんにしてほしいと指定もされていて、テープの最初の部分で作詞のイメージを言葉で話してるんですよ。絵コンテから想像して、こういうイメージなんだって。その中にパシフィックという言葉はもうあったと思いますね。プロデューサー感覚のある人なんだなってちょっと驚いた記憶があります」
作詞を指名された山川はその半年前、すでに「チャイナタウン」という歌詞で一緒に仕事をしていた。
(参照コラム・山川啓介~矢沢永吉に「チャイナタウン」をひとり往くハードボイルドな男を見た作詞家)
矢沢永吉が英語で歌ったデモテープからは、「こう歌いたいんだな」という情感みたいなものが伝わってきて、山川にとっては難しいが楽しい仕事だったという。
レコーディングは1978年1月7日に行われた。プロデューサーとして関わったのは田代と大森で、エンジニアが吉野金次である。
ミュージシャンには高橋幸宏(DR)、後藤次利(B)、斉藤ノブ(PER)、坂本龍一(KEY)と若手のトップクラスが揃い、そこへ矢沢永吉のバックバンドからギターで相沢行夫と木原敏夫が参加した。
通常のCMソングやタイアップ曲にはめずらしく、編曲者を立てずに楽譜もないというバンド・スタイルで、ミュージシャンとエンジニアが話し合いながらヘッドアレンジで、ゆったりとしたサウンドを組み立てていった。全体をまとめてプロデュースまで行ったのは、主にエンジニアの吉野であった。
細野晴臣に誘われてはっぴいえんどのアルバム『風街ろまん』にミキサーとして参加し吉野は、日本では初となるフリーのエンジニアとして、アンダーグラウンドの浅川マキから、華やかな沢田研二までを手がけていた。
ビートルズのプロデューサージョージ・マーティンに強い影響を受けてきた、日本で屈指のレコーディング・エンジニアである。そして高橋幸宏と坂本龍一はこのレコーディングの後に、細野晴臣と3人でYMOを結成することになる。
それだけの才能を集めておいて、自由な発想でレコーディング出来るようにはからったのが大森だった。
「あのスタジオはよく覚えてますね。矢沢さんは当時住まわれていた山中湖の方から出てこられて。毛糸の帽子をかぶっていて、かなり素な感じでした。吉野さんがヘッドアレンジで色々意見を言って、坂本さんが突然フレーズを思いついて弾いてみたり。相当クリエイティブな空気でした」
1978年3月21日に発売された「時間よ止まれ」は、春から夏にかけてヒットチャートを上昇し、6月12日から3週間連続で1位になった。
矢沢永吉にとっては、これが最初のナンバーワン・ヒットであった。
(このコラムは2018年6月1日に公開されたものです)
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