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ロバート・ジョンソン〜満たされない野望

2024.08.16

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1938年初め、ロバート・ジョンソンはニューヨークの摩天楼をその足元から見上げていた。深南部のミシシッピ州に生まれ育った、もうすぐ27歳の黒人の若者はその光景に圧倒されただろう。だが、心の中には大きな野望もあったはず。この街でも有名になってやるんだ、と。

ロバートは1936年11月にサントニオで、1937年6月にダラスで、2度録音を行なった。1937年にヴォカリオン・レーベルから発売された「Terraplane Blues」は約4000枚を売るヒットとなり、南部ではかなり知名度が上がる。その曲をジュークボックスで聴いた人たちが各地で彼を待っていて、演奏の機会も収入も増えた。その後のレコードはどれも売れなかったが、ロバートは自分の音楽に自信があった。しばしば自分のレコードを友人や恋人の家に持っていき、自慢げに聞かせたという。

年が明けるとすぐ、彼はジョニー・シャインズらとハイウェイ51号線を北上する旅に出た。セントルイスで地元のブルーズマンたちと交流した後、シカゴ、デトロイト、カナダのオンタリオ州まで足を伸ばす。そして東海岸に向かい、ニューヨークまでやってきたのだ。この広域にわたった数か月の旅が、その放浪癖のせいだけとは思えない。彼は次のチャンスを探していたに違いない。

ミシシッピに戻った彼は、亡くなるまでの半年間にエレキ・ギターを弾いていたと噂されている。ピアニストとドラマーから成るバンドと演奏したともいう。ロバートは明らかに新しいサウンドを探し求めていた。それがシカゴ・ブルーズを何年も先取りしていたのは間違いない。

しかし、彼がそれを世に問うことはなかった。
ミシシッピ州グリーンウッド近くのジュ―クジョイントに出演中、人妻に手を出し、嫉妬にかられた夫が毒を盛ったウィスキーをふるまったのだ。1938年8月16日にロバートは息をひきとる。27歳と3ヵ月の若さだった。

ちょうどその頃、伝説的なプロデューサー、ジョン・ハモンドが彼の行方を探していた。黒人音楽を米国の主流社会に紹介する歴史的コンサートとなる「フロム・スピリチュアル・トゥ・スウィング」に出演させたかったのだ。その会場となったのはニューヨークの音楽の殿堂カーネギーホールである。



ニューヨークの摩天楼をその足元から見上げていた
この訪問が1938年というのは、同行したジョニー・シャインズの記憶によるもの。37年という説もある。

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ロバート・ジョンソン
『The Complete Recordings』


*当コラムは2014年8月9日に初回公開されました。

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