「本物の音楽」が持つ“繋がり”や“物語”を毎日コラム配信

TAP the POP

TAP the DAY

フレディ・キングを偲んで〜“テキサスの弾丸”と呼ばれたブルースマンの偉大な足跡と功績

2019.12.28

Pocket
LINEで送る


1976年12月28日、ブルースの“3大キング”の一人フレディ・キング(享年42)がテキサス州ダラスで出血性潰瘍と心不全のため急逝した。
B.B. キングよりも9歳年下で、アルバート・キングよりも11歳若かった彼は、250パウンド(110Kg以上)の巨体と、愛機チェリーレッドのギブソンES-345TDから織りなすダイナミックなプレイから“Texas Cannonball(テキサスの砲弾)”と呼ばれていた。[※1970年代に入ってからはギブソンES-355TDSVも愛用していた]
エリック・クラプトン、デュアン・オールマン、ジェフ・ベック、スティーヴィー・レイ・ヴォーンなど、多くのギタリストに影響を与えた彼の演奏スタイルの特徴といえば、テキサス掛けと言われた(たすき掛けにしない)ストラップ、金属製のサムピックとフィンガーピックで弦を弾(はじ)く太く歪んだサウンド、そして躍動的なチョーキングだった。
彼の死後、エリック・クラプトンはこんな言葉で彼の功績を讃えた。

「フレディから教わった一番重要なこと、それは、ギターと弾き手が愛し合って一つになることさ。」


1934年9月3日、彼はテキサス州のギルマーで生まれた。
祖父はネイティヴアメリカンのチョクトー族で、彼が誕生する前、娘(フレディの母親)にこんな予言を伝えていたという。

「お前が授かる子供は、将来何百万という人々の心をかき乱し、同世代に大きな影響を与えることになるだろう。」


6歳からギターに触れるようになった彼は、母親とその兄弟(伯父)の教えでカントリーブルースを演奏するようになる。
最初はライトニン・ホプキンスやジョン・リー・フッカー、ルイ・ジョーダン、そしてB.B.キングのレコードを繰り返し聴きながら、同じタイミングで弾けるように必死に練習したという。
彼が初めて手にしたギターは、シルバートーン製のアコースティックモデルだった。
少しずつ上達していくにつれて、彼は新しいギターを手に入れたくなる。

「自分でギターを購入するために、綿摘みの仕事をしていたよ。」


次に自分で稼いだお金で彼が買ったギターは、ロイ・ロジャース製のアコースティックモデルだった。
彼が10代の頃、一家はシカゴに移住する。
1950年代初頭、時代はシカゴブルース全盛期を迎える直前だった。
ブルースの聖地となりつつあったその街で、彼は多感な時期を過ごすこととなる。
まだ未成年だったにも関わらず、彼は夜な夜なシカゴのクラブなどに潜り込むようになる。
ある夜クラブの支配人に見つかり、店からつまみ出されそうになっていた彼を助けたのが、ハウリン・ウルフだった。

「そいつはウチの奴だ!手をはなしてやりな!」


そんな出会いをきっかけに、その後、彼は当時シカゴで活躍していたブルースマン達と交流を持つようになる。
エディ・テイラー、マディ・ウォーターズ、リトル・ウォルター、ジミー・ロジャース…その面子は錚々たるものだった。

「俺に金属製のフィンガーピックの使い方を教えてくれたのはエディ・テイラーさ!」


昼は製鉄所で働き、夜は酒場やクラブで演奏する生活を続けながら、彼はギターの腕を磨いていく。
1956年、22歳になった彼は地元のマイナーレーベル(El-Bee)と契約し、「Country Boy」と「That’s Want You Think」の2曲を録音する。


彼はその後、マディ・ウォーターズやハウリン・ウルフも契約していたシカゴブルースを代表するチェスレコードのオーディションを何度か受けるが…当時チェスは彼の才能を認めなかったという。

「B.B. キングの二番煎じのようだから、という理由で落とされたんだ。」


しかしその挫折は、彼を独自のスタイルへと導く大きな転機となった。
1959年、ピアニストのソニー・トンプソンとの出会いが彼の運命を大きく変えることとなる。
当時ソニー・トンプソンが所属していたキングレコード傘下のフェデラルレコーズとの契約するチャンスを掴み、彼は翌1960年に「Hide Away」をR&Bチャート5位、ポップスチャート29位に叩き込み、一気にその才能を開花させてゆく。
当時、特にイギリスのブルーズギタリスト達は彼のプレイに熱狂したという。
ジョン・メイオールは彼の「Have You Ever Loved A Woman」を気に入り、こんな言葉で評したという。

「その腕前は凄まじかったぜ!フレディは聴衆の気持ちにストレートに働きかける速弾きの定番フレーズを持っていた名手だね! 」



その後、1960年代後半までにジョン・メイオールやエリック・クラプトンによって神格化され、彼はブルースマンとしての確固たるステータスを獲得してゆく。
1968年にはアトランティックレコード傘下のコティリオンと契約し、キング・カーティスのプロデュースで『Freddie King Is a Blues Master』(1969年)、『My Feeling for the Blues』(1970年)という2枚のアルバムを発表。
1970年にはレオン・ラッセルのシェルターレコードと契約し、『Getting Ready』(1971年)、『Texas Cannonball』(1972年)、『Woman Across The River』(1973年)という3枚のアルバムを発表。
この時代には、ジェフ・ベック・グループによるカバーでも知られる「Going Down」が生まれている。
1974年にはRSOと契約し『Burglar』(1974年)、『Larger Than Life』(1975年)という2枚のアルバムを発表。
当時、年間300日にも及ぶ強行スケジュールのツアーを組むほど精力的に活動を続けていた彼だったが…1976年12月28日、テキサス州ダラスで出血性潰瘍と心不全のため急逝してしまう。




<引用元・参考文献『ギター・マガジン 2019年 8月号』ギター・マガジン編集部(編集)/リットーミュージック>

Pocket
LINEで送る

あなたにおすすめ

関連するコラム

[TAP the DAY]の最新コラム

SNSでも配信中

Pagetop ↑

トップページへ