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一本の鉛筆があれば戦争はいやだと私は書く 一本の鉛筆があれば八月六日の朝と私は書く

2016.08.06

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その歌が誕生したのは平和をテーマにした音楽祭が、新しく始まったことがきっかけだった。

幼少時に父が徴兵された美空ひばりは、四人の幼子を抱えた母と一緒に戦火の中を生き延びてきた。
横浜大空襲では避難した防空壕で、生き地獄のような恐怖も体験している。

”世界に平和を発信したい”という広島テレビ放送の企画に賛同した美空ひばりは、音楽祭への出演を快諾して課題となった新曲に取り組んだ。

  一本の鉛筆があれば
  私は あなたへの愛を書く
  一本の鉛筆があれば
  戦争はいやだと 私は書く


一本の鉛筆と一枚の紙があれば、たった一人でも反戦を訴えることができる。

この真っ直ぐなメッセージ・ソングを作詞したのは脚本家の松山善三、音楽祭の総合演出を引き受けた映画監督である。
そして黒澤明監督の映画音楽で知られる音楽家、佐藤勝がメロディとアレンジを担当して新しい歌が完成した。

1974年8月9日、美空ひばりは第一回広島平和音楽祭で初めて、この歌を人前で歌うことになった。

その日も暑い日だったが、会場の広島体育館は冷房がなかった。
出番を待つための場所、体育館の用具置き場のようなスペースには氷柱が一本立っているだけだ。

そこで早くから出番を待っていた美空ひばりを気遣って、広島テレビのディレクターが声をかけた。

「ここは暑いですから、冷房のある別棟の楽屋でお待ちください」

「あの時、広島の人たちは、もっと熱かったのでしょうね」


誰に言うでもなく、そうつぶやいたのは美空ひばりだった。

ここから美空ひばりは数多い持ち歌のなかでも、「一本の鉛筆」を大切な曲の上位に入れていく。

そして10月1日にはシングル盤を発売したのである。

MUSIC LABO VOL.207R0038

美空ひばりが再び広島平和音楽祭に出演したのは、それから14年後の1988年夏のことだ。

その年まで大腿骨頭壊死(えし)と肝臓病で入退院を繰り返した美空ひばりは、再起は絶望的と伝えられていたにもかかわらず、4月11日に開かれた東京ドームの「不死鳥コンサート」を成功させて見事に復活をアピールした。

だが東京ドーム公演後を境に体調はひどく悪化し、一人で歩くことさえ困難な状態になった。
その日も会場となった広島サンプラザの楽屋にベッドを運び込み、点滴を打ったままずっと横になっていた。

ところがひとたび舞台に上がって観客の前に立つと、笑顔を絶やさずに「一本の鉛筆」を歌い切ったのだ。




そしてステージを降りた時に、「来てよかった」と微笑んだのである。

  一本の鉛筆があれば
  八月六日の朝と書く
  一本の鉛筆があれば
  人間のいのちと 私は書く


翌年の6月24日、美空ひばりは52歳の若さで逝去した。

しかし美空ひばりによって生命を与えられた「一本の鉛筆」は、浜田真理子ほか多くの女性シンガーたちに歌い継がれて、今ではスタンダードになっている。




<注>本コラムは2014年8月4日に初公開した「一本の鉛筆があれば戦争はいやだと私は書く」の改題、改訂版です。


美空ひばり『一本の鉛筆 (MEG-CD)』
株式会社ミュージックグリッド

<これは美空ひばりさんとも親交のあった坂本九さんの長女、大島花子さんの「一本の鉛筆」です>



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