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「一本の鉛筆があれば戦争はいやだと私は書く」と美空ひばりが歌った反戦と平和の歌

2018.06.24

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「一本の鉛筆」という歌が誕生したのは、1974年に広島で平和をテーマにした音楽祭が新しく始まることがきっかけだった。

美空ひばりは幼少時に父が徴兵されたので、四人の幼子を抱えた母と一緒に戦火の中を生き延びてきた体験があった。
横浜大空襲のときには避難した防空壕で、生き地獄のような恐怖も味わってきた。

戦後になっても夏の日ざかりで、焼けたアスファルトの道をゴム長で、魚屋の仕入れのリヤカーを引く母の姿を美空ひばりは覚えていた。

”世界に平和を発信したい”という広島テレビ放送の企画に賛同し、音楽祭への出演を快諾した美空ひばりは課題となった「一本の鉛筆」に取り組んだ。

  一本の鉛筆があれば
  私は あなたへの愛を書く
  一本の鉛筆があれば
  戦争はいやだと 私は書く


この真っ直ぐなメッセージ・ソングを作詞したのは脚本家の松山善三、音楽祭の総合演出を引き受けた映画監督であった。
そして黒澤明監督の映画音楽で知られる音楽家、佐藤勝が作曲とアレンジを引き受けて反戦と平和を訴える新しい歌が完成した。

一本の鉛筆と一枚の紙があれば、たった一人でも反戦の意志を訴えることができる。

美空ひばりは8月9日に開かれた第一回広島平和音楽祭で、この歌を人初めて前で歌うためにスタンバイしていた。
その日も、朝から暑い日になった。

会場の広島体育館には冷房設備がなかったので、出番を待つための場所に指定された体育館の用具置き場のようなスペースには、氷柱が一本だけ置いてあった。
そこで早くから出番を待っていた美空ひばりに、広島テレビのディレクターが暑さをを気遣って声をかけてきた。

「ここは暑いですから、冷房のある別棟の楽屋でお待ちください」


美空ひばりそのとき、誰に言うでもなくこうつぶやいた。

「あの時、広島の人たちは、もっと熱かったのでしょうね」


10月1日にはシングル盤が発売されたが、B 面の「八月五日の夜だった」ともども広島市へ投下された原子爆弾によって起こされた、未曾有の悲劇について描いた作品だ。

MUSIC LABO VOL.207R0038

それから14年後の1988年、美空ひばりは再び広島平和音楽祭に出演した。

大腿骨頭壊死(えし)と肝臓病で入退院を繰り返していた美空ひばりはその頃、もう再起は絶望的とも伝えられていた状況にもかかわらず、その年の4月11日に開かれた東京ドームで「不死鳥コンサート」を成功させて、見事に復活をアピールしたばかりだった。

しかし東京ドーム公演後を境に美空ひばりの体調はひどく悪化し、やがて一人では歩くことさえ困難な状態になってしまった。
その日も会場となった広島サンプラザの楽屋には、ベッドが運び込まれて点滴を打ったまま、本番が始まるまで美空ひばりはずっと横になっていた。

ところがひとたび舞台に上がって観客の前に立つと、美空ひばりは笑顔を絶やさずに「一本の鉛筆」をきれいに歌い切ったのである。
そしてステージを降りた時、「来てよかった」と微笑んだのだった。


  一本の鉛筆があれば
  八月六日の朝と書く
  一本の鉛筆があれば
  人間のいのちと 私は書く


美空ひばりは翌年の6月24日、52歳の若さで逝去した。

しかし、美空ひばりによって生命を与えられた「一本の鉛筆」は21世紀になっても、浜田真理子ほか多くの女性シンガーたちに歌い継がれて、今ではスタンダード・ソングに育っている。




<注>本コラムは2014年8月4日に初公開した「一本の鉛筆があれば戦争はいやだと私は書く」の改題、改訂版です。


美空ひばり『一本の鉛筆 (MEG-CD)』
株式会社ミュージックグリッド

<これは美空ひばりさんとも親交のあった坂本九さんの長女、大島花子さんの「一本の鉛筆」です>



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