TAP the DAY

マドンナ青春物語・後編〜たった35ドルから始まったニューヨーク生活、神よりも有名になる!そして掴んだ夢への切符〜

2016.08.16

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80年代から約35年経った今も進化をし続け、トップの座に君臨し続ける “クイーン・オブ・ポップ”マドンナ。
58歳を迎えた今も、そのカリスマ性と創造性は衰えることはない。
親の七光りやズバ抜けた歌唱力を持っているわけではない彼女が、トップスターにのし上った原動力と経緯とは?
その生い立ち〜青春時代のエピソードをご紹介します。 

「私は絶望の女王なのよ!でも私はすごくいいメカニズムを持っているの。どんな悪い状況になっても、人生を完全に絶望視するのをくい止める何かがあるのよ。」


1978年、19歳だった彼女はまだ1年半しか通っていないミシガン大学を突如として中退する。

「大学で学べるものは全て学んだわ!もっと先に進まなきゃ!」

“スターになる”という夢の実現のため、自分が何をすべきかを考えての決断だった。
そして同年の7月、彼女は着替えの入ったボストンバックを抱えて、35ドル(当時の日本円で約¥4,000)の現金を手に、故郷のデトロイトを後にニューヨークへと旅立つ。
自分の夢を叶えるための地に降り立った彼女だったが、行くあてがあるわけでもなく…とりあえずタクシーに乗ってこう言った。

「一番華やかな場所へ行って!」

それがすべての“始まり”だった。
運転手が向かったのは、タイムズスクエア。
圧倒的な人の多さと、きらびやかなネオンに感動したマドンナは、心の中でこう決意したという。

「神よりも有名になる!」

彼女がニューヨークで最初に借りたアパートは、当時はまだ危険が多いイーストヴィレッジのはずれだった。
建物の前にはホームレスがうろつき、部屋はゴキブリだらけだったという。
彼女は早速、パール・ラングが開催するダンススクールの門を叩く。
お金が無いから、レッスン以外の時間はひたすらアルバイトをしたという。
タイムズスクエアにあるドーナツ屋で、1ドル50セントの時給でウェイトレスをしながら、さらに高級レストランで帽子預かりのクロークとして働くという日々。
一銭もなくお腹を空かせてニューヨークの街をうろつくことも多々あったという。

“落ちているマクドナルドの袋には必ずフレンチフライの食べ残しが入っている”

そんな教訓を得たりもしたほどだった。
ニューヨークにきて4カ月、二十歳になっていた彼女はある有名ダンスカンパニーのオーディションを受けて合格する。
そのオーディションでも目立つために、背中の大きく開いたTシャツを30センチの安全ピンで留めて臨んだという。
振付師のパール・ラングは当時の彼女についてこんな風に語っている。

「類まれなダンサーだったよ。集中力も高くプロ意識がありとても真剣だった。でも性格がね…」

ラングが言う通り、その強気な性格から振付師と口論になり…彼女は結局一度も舞台を踏まないままカンパニーを去ることになった。
地道な練習でダンスの腕は上達したものの、発表する場も生活費も無く追い詰められた彼女は、金銭面の解決のために美術学校でヌードモデルをしたり成人映画に出演したりもするようになる。
そうして何とか生活をしのぎつつ、夜な夜なダンスクラブに繰り出しては、新しいダンスを取得していった。
当時のニューヨークでは、1977年に公開された映画『サタデー・ナイト・フィーバー』の影響から、ダンスが若者のカルチャーシーンとして定着し、数多くのダンスクラブが誕生していた。
この頃から「スターになるには歌うことが近道!」と考えるようになり、意気投合したミュージシャンとバンドを組みクラブでの演奏を中心に音楽活動をスタートさせる。
ちなみに彼女はボーカルだけにとどまらずギターやドラムを担当することもあったという。
少しでも目立つために個性的なファッションとパフォーマンスを披露し、周りを圧倒していた彼女に、ある時期からファンも付き始めた。
そして1980年に入り、彼女は自ら作った曲を当時のミュージックシーンを牽引していたナイトクラブ『ダンステリア』の人気DJに持ち込んだ。

「凄くいい曲があるわ!みんな凄く気に入るわよ!」

そう言って彼女はDJの唇にキスをした。
その夜、彼女の曲が流れたフロアはもの凄い盛り上がりだったという。
そして、遂に彼女の才能を理解するレコード会社が現れる。
それは当時、プリンスやヴァン・ヘイレンなどの有名アーティストを抱えていたワーナー・ブラザースレコードだった。
その契約内容は5000ドルと一曲ごとの印税、さらに出版料として1000ドルを支払うというものだった。
約5年前…わずか35ドルを握りしめてスターを夢見てニューヨークにやってきた19歳の少女が、とうとう24歳にしてレコードデビューへの切符を手にしたのだ。
1982年10月にリリースしたデビューシングル「Everybody」は、即座にビルボードのダンスチャートにランクイン。
レコード会社は、即座に1stアルバムの製作に取り掛かかった。
マネージャーには、マイケル・ジャクソンを担当していたフレディ・デマンが起用され、彼女がスターへの階段を駆け上ってゆく条件はすべて準備された…。


■「マドンナ青春物語・前編〜母の死、父への愛憎、とにかく目立ちたい!剃らない脇毛と突然の大学中退〜」はこちらから

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