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マドンナ青春物語・前編〜母の死、父への愛憎、とにかく目立ちたい!剃らない脇毛と突然の大学中退

2016.08.16

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80年代のデビューから現在も進化をし続けてきた “クイーン・オブ・ポップ”マドンナ。
幼い頃から「絶対にスターになる!」という強い意志を持ち、それを実現してしまうそのパワーの源はどこにあったのだろう?
その生い立ち〜青春時代のエピソードをご紹介します。 

「私はずっと人気者であると同時に嫌われ者で、成功者であると同時に敗者で、愛されると同時に憎まれてもきた。でも今になってわかるの。どちらにしろ、みんな意味の無いことだってね。」


1958年8月16日、彼女はアメリカのミシガン州デトロイト郊外のベイシティで生まれた。
本名はマドンナ・ルイーズ・ヴェロニカ・チッコーネ。
父はイタリアの血を引くアメリカ人で、クライスラー社でエンジニアとして働いていた。母はフランス系のカナダ人だった。
幼少の頃は、兄2人、妹2人、弟1人の大家族の中で育ち、日曜日には家族そろって教会へ行くというアメリカでは一般的な中流階級の生活をしていたという。
6人兄弟の3番目(長女)だった彼女は、早くから周囲から注目されるコツを身に着けていた。
例えば家族全員でテレビを見ている最中に、突如テーブルをステージ代わりにして歌い踊り出したり、TVコマーシャルの真似をしながら茶目っ気たっぷりにスカートをめくったりしていたという。
しかし、そんな彼女を失意のどん底に突き落とす出来事が起きる。
母親が乳癌で亡くなったのだ。
大好きだった母親が、30歳という若さで病魔と闘いながら衰弱していく様を目の当たりにすることは、当時まだ5歳だった彼女にはあまりにも衝撃的だったという。
その出来事は、後の彼女の人生に大きな影響を及ぼすこととなる。

「母がいないなら、私は強くなる!自分のことは自分でやる!」

そう決意した幼い彼女は、なんでも自分でやるようになり、さらに、長女として弟や妹たちの母親代わりもするようになった。
食事の世話から、兄弟達が学校に着ていく服選びにも気を配ったという。
しかし、彼女が8歳の時に父が再婚をする。
突如、主婦の役割を奪われ、大好きな人をも奪われたと感じた彼女は、その怒りを父への反発という形で表現するようになる。
当時、彼女は厳格なカトリックの小学校に通っていたが、わざと服を破ったり裏返しにしたり、男子を挑発するために下着が見えるような格好をするようになる。
その頃の自分について、マドンナは後にこうコメントしている。

「何かを探し求めている孤独な少女だったわ。よくいる反抗的な子どもではなく、何か光るものを持った存在でありたかった。普通の女の子たちがするような格好はしたくなかったの。」

母の死や、父、継母との確執は彼女の精神性に大きな影響を及ぼし、後に「Promise To Try」、「Oh Father」(共に1989年発表)などの楽曲で歌われることとなる。


彼女の顔を忘れないで
そんな涙は笑い飛ばして
彼女が一番苦しんだのだから

人生はちっともフェアなものじゃない
あなたはそう言ったわ
だから私は構わないようにしてるのよ



もうあなたには私を傷つけられない
遠く離れたんだもの
こうなるとは思ってもみなかったけど
かつては力を持っていたあなたでも
私を泣かせることはできないのよ
自分がこんなに力強く感じられたことってなかったわ


学校から“問題児”として見られながらも、その一方で成績は優秀で、ほとんどの科目でAをとる優等生だったという。
彼女は幼い頃から多くの習い事をしており、最初はピアノを習っていたが、父親に「バレエを習いたい」と懇願して変えてクラシックバレエを習うようになる。
その後も、モダンダンスやジャズダンスなど、ダンスを多く習うこととなる。
そんな彼女が音楽と向き合うようになったのはこの頃からだった。
彼女が育ったデトロイトでは当時モータウンミュージックが全盛期を迎えていた。
ラジオから流れるダイアナロス&シュープリームス、スティービー・ワンダーなどの曲に合わせて、彼女はダンスをする楽しさを覚えてゆく。
高校に進むと、チアリーダー部に所属する。
熱狂する群衆の前で演技する快感を味わうことが、なによりの楽しみとなる。

「とにかく目立ちたい!」

彼女は、思春期になると同性のクラスメートも困惑するような行動で個性を出していたという。
脇毛を剃らなかったのだ。
チアリーディングのノースリーブのユニフォームでも堂々とし、男子生徒の視線を釘付けにしたという。
それはマドンナ流の「他のモノと同じでは嫌だ!」というこだわりからだった。
そんな彼女は演劇部にも所属していた。
ダンスとは違った表現方法の虜になり、スポットライトを浴びる快感を覚える。
そんな高校生活を送る中で、彼女はある人物との運命的な出会いを果たす。
それはクリストファー・フリンというクラッシックバレエの男性指導者だった。
彼はバレエというそれまでのマドンナに無かった芸術性の高いダンスを教え、その一方、ゲイバーやクラブへ連れて行き、家庭や学校では決して教えてくれない音楽や芸術をも教えてくれたのだった。

「マドンナは白い紙だった。そしてそれを埋めたくてうずうずしていた。芸術、クラッシック、音楽、彫刻、ファッション、文化については全くの無知だった。でも“学びたい”という、燃えるような欲望があったんだ。何かをしきりに吸収したがっていた。凄く積極的な女の子だったよ。いつももっとうまくなるにはどうしたらいいかを真剣に考えていた。その意欲なるや凄かったね。」

フリンは当時の彼女をこう振り返っている。
1976年、彼女は他の生徒より3カ月早く高校を卒業して、フリンの薦めで奨学金を手にして地元のミシガン大学に進学をする。
大学での彼女は、何をやるにも一切手を抜かず、誰よりも真面目に授業に取り組み、サタデーナイトの夜遊びでも一晩中踊りあかし、翌朝から授業やダンスの練習があっても遅刻することはなかったという。
そんなある日、彼女は近くの州で年に1回開催される「アメリカン・ダンス・フェスティバル」に、憧れの振付師パール・ラングがやって来ることを知る。
彼女は早速足を運び自分をアピールしたという。

「先生のカンパニーではダンサーを募集していませんか?もし募集があるのなら、是非私にやらせてください!」

この時、パール・ラングは彼女に対して「何て厚かましくて図々しい娘だ!」と感じたという。
パールは彼女にこう返した。

「常時募集はしているけど。ちょっと待って。あなたはミシガンにいるんでしょう?私はニューヨークにいるのよ。」
※ミシガンとニューヨークは、東京~福岡ほどの距離

それに対して彼女は即答したという。

「何とかします!」

その妥協しない自分に厳しい姿勢から、誰もが一目をおく存在となっていった彼女だったが…大学生活の1年半を過ぎた頃、突如として大学を中退する。

「大学で学べるものは全て学んだわ!もっと先に進まなきゃ!」


■「マドンナ青春物語・後編〜たった35ドルから始まったニューヨーク生活、神よりも有名になる!そして掴んだ夢への切符〜」に続く

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